スイート・バレンタイン・ギフト - 1/2

「こっちも美味しそうねぇ。迷うわ」
 隣にいるドロテアの弾んだ声につられて、エーデルガルトは彼女の視線の先に目をやった。目の前のガラスケースの中に陳列されているのはチョコレートだ。
「確か、雑誌に取り上げられていたショコラティエのものよね。気になっていたの」
 ドロテアは愛読している女性ファッション誌のタイトルを挙げた。
 さすがはファッションやグルメ、美容といった分野の流行に敏感な彼女だ。小さなギフトボックスに収まった小粒のチョコレートには心惹かれるが、彼女ほど詳しくはないエーデルガルトは曖昧な相槌を打つばかりであった。

 今日は二月十三日。バレンタインを翌日に控え、エーデルガルトは同僚であり、友人でもあるドロテアと連れ立って百貨店の催事場にやって来ていた。彼女に言わせれば、ドロテアに誘われたから付いてきただけなのだ、とのことだが。
 今の会社には結婚相手を探すために入社したのだ、とまで宣うドロテアは、今年も義理を含めて大勢の男性達にチョコレートを贈るつもりらしい。しかし、彼女がすでに下げている紙袋の中のチョコレートはすべて自分で食べるためのものだという。「男性にあげるばっかりじゃ、つまらないじゃないの」と艶やかな笑みを見せるドロテアであった。この分ではまた去年と同様、一人ですべて食べきるにはカロリーやお肌の調子が気になってしまうからと、休憩時間にお茶菓子としてこれらのチョコレートが登場する日々が続くのかもしれない。エーデルガルトも甘い物は嫌いではないし、彼女が選ぶだけあってどれもセンスが良く、美味しいものばかりだったのでお相伴に与ることもやぶさかではなかったのだが。

「ここ限定ということだもの、やっぱりこれも買っておくべきよね」
 妙に力のこもった呟きを発した後、彼女は店員に対して笑顔を向けた。こざっぱりとしたコックコートの店員は同性であるが、ドロテアの華やかな美貌に圧倒されているようである。
「そういえば、エーデルちゃんは同棲中の彼には贈らないの?」
 会計を済ませて新たな紙袋を受け取って、また別のブランドを見ようと歩きながら、ドロテアはそんなことを尋ねてくる。

「同棲じゃないわ、同居よ」
 同僚の言葉を直ちに訂正するが、さっぱり効果は見られない。そもそも、このやり取りも一体何度目になることか。
 エーデルガルトが同じマンションの部屋で一緒に暮らしているヒューベルトという男は、幼い頃から共にあった存在だ。二人の家系を遡ると、ヒューベルトの一族は彼女の家に仕え、彼女の一族を支えていたという。今もエーデルガルトの父親が会長を務める企業グループを、ヒューベルトを筆頭とする彼の一族が支えている。

 度々エーデルガルトの勤め先に姿を見せる男について、ドロテアからあれやこれやと問い詰められたが恋人であることは否定した。共に育った幼馴染みだと説明したのだが、いつしか二人が一緒に暮らしていることまで知られることとなったのである。
「同居人、ねぇ……?」
 意味ありげな含み笑いをする同僚から、エーデルガルトは視線を逸らした。
……
 彼女は答えない。答えられなかった。

 少し前までは二人は確かに幼馴染みであり、同居人であった。しかし、その関係は今や崩れてしまった。エーデルガルトは、自分にもっとも近しい存在をなんと呼ぶべきかわからず、悩んでいた。
「ねえ。見て、エーデルちゃん。こんなに可愛いものもあるのね」
 黙り込んでしまった彼女に、少し困ったような顔で溜め息をついた後、ドロテアは気分を変えるように明るい声で近くのガラスケースを示した。そこにはテディベアをかたどったチョコレートがすまし顔で並んでいる。エーデルガルトもほっと息をついて、表情を緩めた。
「そうね。でも、食べてしまうのが可哀想な気がしてしまうわ」

 彼女の言葉に、ドロテアはふふっ、と小さく笑った。
「な、なによ……
 笑われたことで今度は頬を赤らめるエーデルガルトだったが、ドロテアは何も彼女を馬鹿にして笑ったつもりはない。一見するとクールで、名ばかりとはいえ会長の娘である彼女は、近寄りがたい高嶺の花と男性社員達からは距離を置かれているところがある。ドロテアとは違い、仕事以外の面で積極的に彼らと関わろうとするタイプでもない。そんな彼女が存外可愛い物を好むことを、友人として付き合っていくうちに知ったのだ。「食べてしまうのが可哀想」などとつい口にしてしまうエーデルガルトこそ、ドロテアにとっては可愛らしく感じられてしまう。

「そろそろ、本来の目的を片付けてしまわないとね。去年はあのブランドのものにしたから、今年は別の物がいいわよね――
 女性客でごった返す催事場を散々歩き回って、ドロテアの両手にはいくつもの紙袋が下げられていたが、どうやら男性陣に贈るチョコレートの品定めはまだだったらしい。
「あら、これなんて良さそうね」

 彼女が目を付けたのは、黒色のパッケージのビターチョコレートだった。ドロテアの視線に気づいた店員がにこやかに「ご試食をどうぞ」とトレーを差し出してくる。
――ん、あんまり甘くなくて、大人の味って感じね。ね、エーデルちゃんも」
「わ、わたしは……

 ドロテアに促され、さらには店員の営業スマイルにも圧されて試食用に小さくカットされたチョコレートを口に含んだ。舌で感じられたカカオの苦みがすうっと溶けて消えていく。
「そう、ね。そんなに甘くないのね」
 彼女の傍らで、ドロテアは早速贈る分だけの数を注文している。
「でしょ? エーデルちゃんも彼氏にどう?」
「だから、彼氏なんかじゃないって、さっきから言っているじゃないの」

 頬をうっすらと染めて、まったく説得力のない抗弁を繰り返すエーデルガルトに、ドロテアはくすくすと笑い出した。
「エーデルちゃんったら、去年も、それから一昨年だって、そんなことを言っていながら、甘い物が苦手だっていう彼氏のためにチョコを買っていたじゃないの」
――ッ!」
 確かに昨年も、その前の年も、ドロテアの買い物に付き合ったついでに同居人へのチョコレートを買った。しかし、彼が甘い物を苦手としていることなど、いつ言ったのだろうか。うっかりと口を滑らせてしまったのか。

……わたしも、そちらのチョコレートを一つ」
 観念したエーデルガルトは、赤いリボンがかけられた、黒色のギフトボックスを指さしたのだった。黒色を好んで身に纏うあの男に似合いだなどと、ふと頭をよぎったことは心に留め置くことにする。
「買い物はこれで全部かしら。ふふっ、明日が楽しみね。エーデルちゃんだってそうでしょう?」
 クリスマスやバレンタインといったイベントは全力で楽しむタイプのドロテアは声を弾ませている。
「明日、ね」

 一方で、エーデルガルトの声は無意識に沈んだものとなる。数日前にバレンタインの日の夜は取引先との会食の予定が入ったと伝えられている。そもそも、明日がバレンタインデーであることも、ヒューベルトの頭の中に入っているかどうか怪しい。
「どうしたの、エーデルちゃん?」
 俯いたエーデルガルトを、彼女よりかなり背の高いドロテアは覗き込むような格好となる。

「別に、なんでも――ちょっと、ドロテア、近すぎるわよ!」
「あら、そう? ごめんなさいね。それで、エーデルちゃんがその美しい顔を曇らせているのはどうしてなの?」
「からかうのはやめて」
 事実を言ったまでのことなのだが、彼女はからかいと受け取ってわずかに眉根を寄せる。ただ、いつものことと諦めているのか、すぐに表情を緩めた。
「たいしたことではないのよ、本当に」
 そう言って溜め息をついたエーデルガルトは遠くを見ている。おそらく『彼』のことを考えているのだろうと、ドロテアは思う。

 件の彼は彼女の家と繋がりがあり、二人の勤め先の関連会社に所属しているとの情報を、付き合いのある男達から得ている。
 ただ、ヒューベルトというその男の評判は芳しくない。切れ者だが情のない男だ、冷酷で眉一つ動かさずに厳しい処断を下す人間だ、などといった噂が方々から入ってきた。確かに、ドロテアの目から見ても、彼の第一印象は黒ずくめという服装も相まって、まるで影のような不気味な存在だった。

 しかし、時折会社の近くでエーデルガルトと共にいるヒューベルトの姿を見かけるが、彼女といる時の男は纏っている雰囲気が変わる。そして、エーデルガルトもまた、長年の付き合いがあるにしてもずいぶんと近い距離まであの男が入り込むことを許している。
 先ほどのドロテア以上にあの男が踏み込んだとしても、彼女は顔色一つ変えないのだから。
「そう? それならばいいけれども」

 これ以上、エーデルガルトの心の領域に踏み込んでも頑なになるだけだろうと判断したドロテアは、潔く撤退することにした。当たり障りのない会話を交わしながら、帰路につく。
(でも――。バレンタインの贈り物、喜んでもらえるといいわね、エーデルちゃん)
 別れ際。こちらに向かって小さく手を振るエーデルガルトに対して、心の裡でそっと話しかけるドロテアであった。

   ◇   ◇   ◇

 二月十四日。
 リビングの掛け時計はまもなく午後十一時を指し示すところだ。エーデルガルトはワンピースタイプのルームウェア姿でソファに寝そべり、分厚い本を広げていた。
 静かな夜だった。こうして一人でいると、尚更に静寂を感じるものだ。

 ローテーブルの上には、昨日ドロテアと一緒に買ってきたチョコレートが、紙袋に入ったままの状態で置かれている。同居人は今朝改めて、「今日は遅くなりますから、しっかり戸締まりをして先にお休みください」と言って出掛けていった。彼の言い付け通りに玄関には鍵が掛けられているが、エーデルガルトは自分の部屋のベッドでは休まず、こうしてリビングにいる。
 彼女はもう一度壁の時計に目をやるが、針は大して進んでいない。溜め息をついて手元の本に視線を戻すが、こちらもまた最初に開いたページから一向に進んでいないのだった。何度も繰り返し読んだ本で、特に気に入っている台詞は諳んじているほどだというのに、まったく内容が頭に入ってこない。

 おそらく、ヒューベルトはバレンタインというイベントに何の意識も持っていないだろう。毎年のチョコレートも、エーデルガルトに押し付けられるから受け取っているだけに違いない。
 彼女は指先で自分の唇に触れ、ゆっくりと左右に動かして撫でた。
 彼の、少しかさついた唇が触れていって、それから――
 長年二人の間に存在した境界線を踏み越えて身体を繋いだが、その出来事によってヒューベルトとの関係がどう変化したのか、彼女にはよくわからないままだ。

 エーデルガルトはかすかに聞こえてきた物音にピタリと手を止め、耳を澄ませた。玄関のドアが開けられる音だ。どうやら同居人が帰宅したらしい。足音が近づいてきて、リビングにヒューベルトがその長身を現した。
「まだお休みではなかったのですか」
「お帰りなさい、ヒューベルト」
――ええ、ただいま戻りました」
 男の目が細められ、高い位置から見下ろしてくる。エーデルガルトはゆっくりと起き上がった。

「ヒューベルト、これ」
 早々に、チョコレートの入った紙袋を男に向かって突きつけた。何とも素っ気ない渡し方だが、今更どう取り繕ったら良いのかもわからない。
「チョコレート、ですか? 今日はバレンタインでしたな」
「さすがの貴方でも今日が何の日か、知っていたのね?」
 エーデルガルトの皮肉めいた言葉に、ヒューベルトも少し表情を緩めた。

「ええ。先月からあれだけ街中で騒ぎ立てていましたからな」
 腕がすんなりと伸びてきて、チョコレートは彼の手に渡った。
 エーデルガルトは呆気にとられて彼を見上げた。去年までなら、「そのようなものを頂く理由がございません」などとやんわり拒絶されたのだ。そこを、二人での暮らしで何かと頼ることが多いのだからその礼だ、慣例行事のようなものなのだから受け取っておきなさい、と無理矢理に押し付けていたのに。
 しかし、いつまでも呆けてはいられない。彼女はやや早口になって言葉を継いだ。

「昨日、ドロテアと帰りに買い物に行ったの。そんなに甘くはなかったから、貴方の口に合うといいのだけれど」
 ヒューベルトは礼を言って、今この場で開けてもよいかと尋ねてくる。エーデルガルトが頷くと、彼は手際よくラッピングを解いて一粒を摘まみ上げた。
……
 エーデルガルトは己の唇にそっと押し当てられたチョコレートと、目の前に立つ男の顔を交互に見た。何のつもりだと目だけで問うと、男は口角をわずかに上げた。

「エーデルガルト様もお一つ」
 その言葉に従って口を開くと、つやつやとした茶色の小さな塊が転がり込んできた。甘さはかなり控え目で、彼女にとっては少し苦い。
 ヒューベルトは片手をソファの背もたれに突いて、至近距離から見下ろしてくる。エーデルガルトは静かに瞳を閉じた。

 薄い唇が重ねられる。エーデルガルトが自ら招き入れるように唇を開くと、するりと舌が侵入してきた。男の舌は器用に動き、口の中のチョコレートを溶かしていく。
「んっ……ふぁっ、んぅっ……!」
 途中で息が苦しくなって空気を求めると、ヒューベルトは唇を解放してくれた。
「なるほど。確かにこれはあまり甘くありませんな」
 涙の膜が張った薄紫色の瞳でぼんやりと男を見上げていると、彼は自らの唇をペロリと舐めた。その様はどこか淫靡で、エーデルガルトの身体に熱を点す。

「ですが、貴方様の唇は甘い……
 掠れた声が彼女の鼓膜を震わせると、今度は啄むように唇に触れられ、それが繰り返される。
 静かな部屋に唇と唇とが触れ合う、湿った音がかすかに響く。エーデルガルトは男の胸元を軽く押すと、ローテーブルの上に取り残されたチョコレートの箱に腕を伸ばして、もう一粒取り出した。その腕をそっと取り押さえて、ヒューベルトは困ったように笑った。
「申し訳ありません。少々この体勢が辛いのですが」

 エーデルガルトもまた小さな笑いを零すと、彼女の隣に腰掛けるように促す。彼がソファに腰を下ろすと、自分は男の膝を跨ぐように乗り上げた。いつもは見上げている、ヒューベルトの緑がかった金の瞳がすぐ間近にある。
「ヒューベルト、も……
 そして、改めて手に取ったチョコレートを男の口の中に押し込むと、自ら唇を重ね合わせたのだった。

 二つ目のチョコレートも溶けてなくなった頃合。
 エーデルガルトは男の首に両腕を回して身を預け、一方のヒューベルトは大きな手で彼女の背を上から下へと滑らせ、その手が臀部に届くと円を描くように殊更にゆっくりと撫で回す。頭を彼の肩にもたせかけたエーデルガルトは擽ったそうに身を竦めた。
 さらさらと流れる長い髪を掬い上げるように手に取ると、彼女が愛用しているシャンプーの香りが鼻孔を擽る。
「シャワーを浴びて参ります。私の部屋で待っていていただけますか?」
 ヒューベルトが耳元でそう囁くと、彼女は期待を込めた目で見つめ返し、小さく頷いたのだった。