苦くて、甘い。

「どうなさいましたか、エーデルガルト様?」
 己の腕の中から抜け出した主に、ヒューベルトも身を起こして怪訝そうな顔を向けた。寝台から毛足の長い絨毯の上に降り立ったエーデルガルトは、薄手の夜着を拾い上げると、それを素肌の上に羽織る。従者の問いに答えることなく、なにやら意味ありげな笑みを浮かべた彼女は、小箱を抱えて戻ってきたのであった。
「何ですかな、それは?」
 エーデルガルトは、再びしなやかなその身を寝具の中に滑り込ませる。男としては細身とはいえ、うっすらと筋肉のついた裸身にもたれ掛かって朱唇を開いたのだった。

「日付が変わったわね」
 彼女は精緻な細工の施された時計にちらりと目をやった。
「今日は――大樹の節、十七の日。ヒューベルト、貴方の誕生日でしょう?」
「そうでしたな。ですが、それが何か?」
 男の反応は素っ気ない。自身の誕生日などこの男にとって何ら意味を持つものではないのだろう。単にその日を迎えたことによって、また一つ年を重ねるだけのことである。宮内卿としては二節先にある主のそれの方が重大事だ。エーデルガルト自身の意向によって先代以前のものよりはずいぶん規模が縮小化されたが、アドラステア帝国皇帝の生誕を祝う日である。帝国の暗部を担うことの多いベストラ侯であるが、皇帝にまつわるすべての政務を取り仕切ることもまた、この男の職務であった。

 従者の答えに、エーデルガルトは子供っぽく頬を膨らませた。その表情だけを見れば、彼女が真紅に彩られた覇道を征く女帝だと、一体誰が思うであろう。
「貴方のことだから、どうせそんなものだとは思っていたけれど……、張り合いがないわ」
 すると、くつくつと喉の奥を鳴らす笑い声が降ってきた。
「張り合いがないとは、一体何のことしょう?」
 エーデルガルトは唇を尖らせている。
「もう、わかっているのでしょう? 気づかないふりなんて、しなくてもいいわ」

 拗ねた主を宥めるかのように、長い両腕が緩く彼女を囲い、その身を閉じ込めた。
……誕生日の贈り物というものをしてみたかったのよ」

「エーデルガルト様、私は――
 言いかけた男の薄い唇に、エーデルガルトの人差し指が押し当てられた。
「自分には贈り物を受け取る理由がない――と言うのは、やめて頂戴」
 先回りをした彼女の言葉は、そっくりそのままヒューベルトが言わんとしたことだった。彼は小さく笑うと、自身の唇を封じている手を取ってその指先に口づけた。

「わかりました、有り難く頂戴いたしましょう。それで、今、拝見してもよろしいので?」
 従者が主に譲ると、エーデルガルトは面映ゆそうに笑って頷いた。贈り物の小箱を開けると、中から現れたのは二客の茶器であった。美しく、繊細な模様は少し珍しい。東方の影響を受けたものだろうか。落ち着いた趣はヒューベルトの好みでもある。
「ありがとうございます、エーデルガルト様。テフを飲む際に使わせていただきましょう。ところで――
 彼は慎重な手つきで片方の茶器を手に取った。

「揃いの茶器が二客とは」
「たまには、貴方と一緒にテフを飲んでみたいもの」
 主の答えに、ヒューベルトは声を立てずに笑う。
「以前、苦くてとても飲めたものではないとおっしゃっていたではありませんか」
「そうだけれど。テフを飲んでいる貴方を見ていると、そんなに美味しいのかしらって思ってしまうのよ」
 エーデルガルトは顎に指を当て、小首を傾げながら従者を見つめながら続けた。
――なんというのかしら、いつもより表情がやわらかいの。貴方、普段は鉄面皮のくせに、顔に出ているわよ」

 ヒューベルトは顔に手を当てた。
「そうですかな?」
「そうよ」
 主が見ている己の目には、彼女自身が映っているはずである。彼女が顔に出ていると言うのであれば、それは……
 ヒューベルトは自らの考えは口にせず、代わりに主に提案した。
「それでは明朝、早速頂いた茶器でテフをお淹れしましょう」

「それは楽しみね」
 エーデルガルトは、ヒューベルトの手から茶器を取り上げ、丁寧に小箱へとしまい込んだ。そして、蠱惑的に微笑みかける。
――でも、朝まではまだずいぶんと時間があるわよね?」
「左様ですな」
 ヒューベルトが同意すると、二人は揃って褥に沈んだのだった。

   ◇   ◇   ◇

「エーデルガルト様、どうぞ」
 寝椅子にしどけなく身体を預けたエーデルガルトの前に、湯気を立てる茶器が置かれた。もちろん、彼女が従者の誕生日の祝いにと贈ったものだ。次いで、牛乳の満たされた容器や砂糖が添えられる。苦みの強いものを苦手とする彼女のために用意したのだろう。
「ありがとう。頂くわ」
 エーデルガルトは優美な手つきで茶器の取っ手を摘まみ上げ、一口口に含む。従者が用意した牛乳や砂糖の存在は無視して、彼に倣ったつもりだったが――

……
 表情はさほど変わっていないが、眉間には皺が寄せられている。そんな主を、ヒューベルトは面白がっていることを隠しもせずに眺めているのだった。
……やっぱり、苦いわね」
 茶器を小卓の上に戻すと、彼女は寝椅子のすぐそばに立ったままの従者を見上げた。
「口直しさせて頂戴」
 そうして、ぐい、と男の腕を掴んで引き寄せた。突然のことに体勢を崩すが、なんとか主の小さな身体を押し潰さず立て直した従者の唇に、やわらかいものが押し付けられた。

「陛下。今日も多くの書類が執務室にて陛下のお越しをお待ちですが?」
 息継ぎの合間にヒューベルトがそう囁くと、エーデルガルトは不機嫌そうに、上目遣いで男を睨み上げた。
「今は、そう呼ばないで。それに政務のことも持ち込まないで頂戴」
 皇帝の寝所で。窓から差し込む朝の光を浴びながら、それとは対極の、濃密な空気を纏う男と女。
 ヒューベルトは目を細めて主を見下ろし、口を開いた。
「いえ、私とて男ですのでね。貴方様にそのように触れられては執務に間に合うか保証はいたしかねると、そうご忠告したまでですよ、エーデルガルト様」

 ――吐息をも奪うかのように与えられた口づけは、ひどく甘かった。

 その日、皇帝に目通りを願うために朝一番で宮城に乗り込んできたとある貴族は、何の説明もなくしばし待たされたという。
 その一方で、いつも定刻には執務室に現れる宮内卿が、その日ばかりは特段の理由もなく少しばかり遅れ、彼の部下達は珍しいこともあるものだと噂したのだとか。