揺籃に微睡む

 寮の自室を一歩出ると、眩い太陽の光が徹夜明けの目を突き刺す。ヒューベルトは薄い色の瞳を細め、早朝の空を一瞥した。
 他の生徒達も起き出してくる頃合いだ。長い廊下に面した各自の部屋から伝わる気配や物音によって、一日の始まりを感じるのだった。
 彼はすぐ隣の部屋の扉を叩いた。すると、部屋の中からは従者の訪いを予想していたであろう応えが返ってくる。

「入って頂戴」
 その言葉に従って扉を開くと、男の主が待ち構えていた。彼女はすでに制服に着替えて椅子に腰掛けている。寝台へと目をやるとそれも綺麗に整えられており、起き抜けという気配は一切ないのだった。
「おはようございます、エーデルガルト様」
「ええ、おはよう。ヒューベルト」
 恭しく一礼して朝の挨拶をする従者に、鷹揚に頷いてみせる主。机の上に片手を置き、身体の重心を預けている彼女は寛いでいるようにも見える。しかし、心なしか鋭い菫色の瞳、横に引き結んだ薄い唇。何か張り詰めたものを感じ取る従者であった。

「エーデルガルト様――
「何かしら?」
 口を突いて出てしまった名に、被さるように発せられた声。やはり緊張を孕んでいるそれに、ヒューベルトは内心で溜め息をついた。
 白磁の肌は、透き通るような――という形容を超えて青ざめて見える。昨夜、この部屋からは悪夢に魘される声は聞こえてこなかった。しかし、よく眠れてはいないのだろう。長年付き従ってきた従者の目から見れば明らかである。それでも、おくびにも出さぬ主にヒューベルトも言及を避けるのであった。

「いいえ、何でもございません」
 緩く首を振った後、彼は懐から取り出した書類を机の上に置いた。エーデルガルトは無言のまま、紙の上に綴られた文字を追っていく。そこには、彼女が下した命の進捗状況がヒューベルトの手によって事細かに書き記されているのだった。一人一人に個室が与えられているとはいえ、どこに『敵』の耳目が潜んでいるともしれないのだ。

 主が文書に目を通している中、彼は予め開け放たれていた抽斗から刷子ブラシを手に取って、主の後ろに立つ。

「失礼いたします」
 返事は返ってこない。しかし、それは二人の間では了承の印なのだ。ヒューベルトは華奢な背を流れる白銀の髪を一房掬い取っては、丁寧な手つきで梳いていった。絹糸のような髪が男の手の中でさらに艶を帯び、淡く輝き出す。
 部屋の外の喧噪を余所に、静かな時が流れていく。そして、ヒューベルトが彼女の瞳と同じ色の髪紐を結び終えたのとほぼ同時に、彼女は文書を読み終えたようだ。後ろに立つ従者を振り返る。

「上手くいっているようで何よりだわ。このまま進めて頂戴」
 エーデルガルトは無造作に書付を二つ折りにして、彼に差し出した。それを受け取った男がもう一方の掌を上に向けると、紫色の禍々しい色合いの炎が出現する。うねるように揺らめく炎がちろちろと文書を舐め、やがて、そのすべてを飲み込んだ。ヒューベルトが手袋を嵌めた手をひらめかせると、炎は跡形もなく消え去った。燃えかすも、焼けた匂いすらも残さずに。

 部屋の前を駆け抜けていく、騒々しい足音が二人の耳に届いた。あれは、ヒューベルトの隣の部屋から出てきたカスパルだろうか。朝食を摂るために食堂へ向かったのだろうが、朝から元気なことだ。
 エーデルガルトは従者と顔を見合わせて、小さく笑った。
「私達も朝食に行くわよ、ヒューベルト」
 男は同意を示して、部屋の扉を開く。廊下へと足を踏み出したところで、エーデルガルトは立ち止まった。朝日が眩しかったのだろう。手をかざして、その隙間から空を見上げている。

……いい天気ね」
 その顔色はやはり冴えない。しかし、それを指摘したところで、彼女は頑なに否定するであろうことは容易に想像できるのだ。
「どうしたのよ、溜め息なんてついて」
 無意識に出てしまった嘆息を、主は素早く見咎めたのだった。
「いいえ、何でもございません」
――そう」

 エーデルガルトは長身の従者を見上げ、何かを探るかのように彼の顔を凝視したが、それ以上は何も言わずにくるりと勢いよく身体の向きを変える。
 廊下を歩く主の後ろに付き従い、ヒューベルトは彼女の歩調に合わせて進む。
 生徒達の騒々しい声も、もはや遠い。彼が見つめるのはただ一つ。やがてその美しい白銀の頭上に冠を戴く、主の背中のみだった。

   ◇   ◇   ◇

 鼻孔を擽る、花の香りが入り混じったような甘い匂いに、ヒューベルトは主であり、想い人でもある彼女の部屋で夜を過ごしたことを思い出した。広い寝台にあってぴたりと身を寄せ合い、時に触れるだけの口づけを交わすうちに睡魔に囚われてしまった主は、いまだ眠りの国を彷徨っているようだ。

 厚い帷帳によって朝の光も遮られ、未だ薄暗い皇帝の寝所。腕の中にある温もりと柔らかな感触には未練があるが――そこまで考えて、ヒューベルトは自らの思考を笑った。五年にも及んだ戦乱が終結したとはいえ、こうも怠惰な考えに囚われるとは、焼きが回ってしまったのかも知れない。昨夜も、主の穏やかな寝顔を眺めているうちに、彼自身も深く寝入ってしまったのだから。
 褥に広がる白銀の髪を一房掬い上げて薄い唇を寄せると、ヒューベルトは寝台から降りて、皇帝の寝所を後にしたのだった。

 衣服を改めた宮内卿が再びその部屋に姿を現したのは、それから少し時が経過してからのことである。寝台へと歩み寄るが、エーデルガルトが目覚める気配は一向にない。傍らにあった存在の名残を求めてか、くしゃくしゃにした掛布の一部を胸元に抱え、身体を丸めているのだった。
「エーデルガルト様」
 柔らかな褥に両手を付き、まるで覆い被さるかのような格好でその名を呼ぶ。しかし、当然のことながらというべきか、彼女からの返答は返ってこない。
「エーデルガルト様、お目覚めの時間です」
 もう一度、少し声を強めて呼びかけた。すると、彼女の眉間に皺が寄り、美しい顔がわずかばかり歪む。

「ん……も、……ちょっ、と――
 今度は従者の声が届いたらしい。けれども、起き出すつもりはないようだ。
「全く、困った御方だ」
 口ではそう言うが、彼の声色にはどこか面白がっている色が含まれていた。とはいっても、このまま寝坊を許すつもりなど毛頭ない従者は、窓に掛けられた帷帳を勢いよく開け放ったのである。

 皇帝の寝所に眩い日の光が溢れる一方で、寝台からは低くくぐもった呻き声が上がった。最後の抵抗なのか、エーデルガルトは掛布を頭の上まで引き上げようとするが、それよりも早く、男の手によって阻まれてしまったのだった。
……ヒューベルト。貴方、本当に容赦ないわね」
 捲り上げられた掛布の下から、恨みがましい菫色の瞳が宮内卿を睨み付けてきた。新任の衛兵でもあるまいに、女帝に睨まれたからといってたじろぐような男ではない。寝台の傍に戻ってきた宮内卿は、涼しい顔のまま胸に手を当て、仰々しく一礼をしてみせる。

「おはようございます、皇帝陛下」
――……
 寝台の上から男を見上げる目は鋭く細められたが、彼女が次に取った行動は実に子供っぽいものであった。ごろり、と寝返りを打って従者に背を向けてしまったのだ。男は主の後ろ姿に、くつくつと喉の奥で笑う。
「いつまでそうやっているおつもりですか、エーデルガルト様」
 従者がその名を呼ぶと、エーデルガルトはわざと大仰な溜め息をついてみせながらも、寝台から身を起こした。

「よくお眠りになっていたようですな」
 ヒューベルトのからかい混じりの言葉に対し、彼女は寝乱れた長い銀髪を手櫛で整えながら答える。
「ええ、おかげでね」
 そして、従者に向かって手を差し出せと言わんばかりに、手の甲を上に向けて伸ばしたのだった。
 男は口角を上げてわずかに笑うと、白い手袋を嵌めた手を差し伸べる。その手の上に、まるで舞踏の誘いを受けるかのような優雅な仕草で繊手が重ねられた。

「目覚めに熱い紅茶を淹れましょう。エーデルガルト様がお好きな」
 自身の手を借りて寝台から降りた主に向かって、ヒューベルトはそう告げる。
「そうね。お願いするわ、ヒューベルト」
 大きく開いた窓から差し込む朝の光の中で微笑む主の姿は、彼の目に眩しく映ったのであった。