凍てつく夜、交わす熱 - 1/2

「くれぐれも私の傍から離れられませぬように。皇帝陛下が迷子など、外聞が悪いどころの話ではありませんからな」
 白い息を吐き出しながらそう告げた宮内卿に、その皇帝たるエーデルガルトは菫色の瞳を険しくした。
「やめて頂戴。子どもじゃあるまいし」
 そうやってあからさまに気分を害したことを露わにしてしまうところが子どもっぽいと言わずして何と言うのか。ヒューベルトはくつくつと喉の奥を震わせて笑うが、彼女はその態度がまた気に食わないようであった。
 渋面をつくる主に、彼はうっすらと笑うのであった。

 二人の姿はアンヴァルの街中にあった。戦乱が終結を迎えてしばらく。帝都アンヴァルは戦塵に塗れることこそなかったが、暗い影は重々しく横たわっていた。しかし、それも数節前までのことだ。アンヴァルの街は徐々に戦争前の賑わいを取り戻しつつあった。いや、千年もの歴史を有しながらその中枢では翳りが見え始めていた帝国だったが、フォドラ全土を再びその支配下に収めて重く垂れ込めていた黒雲をも吹き飛ばしたかのようにも見える。差し始めた日差しがやがてこの大陸全土に降り注ぐのか、ほんの一時のことで終わるのか。すべてはこれからのエーデルガルト達の手腕にかかっているといえよう。

 常日頃は宮城の奥深く、皇帝の執務室にて書類と顔を突き合わせている彼女だったが、夕闇が差し迫るアンヴァルの街角にて眼前の風景に見入っていた。
 炎の女帝とも称される彼女を象徴する緋は纏わず、地味な薄茶色の外套に身を包んでいる。白銀の長い髪を後頭部で一つにまとめた上で、毛皮製の帽子を深く被っていた。防寒のためでもあるが、主な意図は毎朝丁寧に梳られ、艶やかにきらめくその髪を隠すことにあった。人の世を掴み取るために。人の身でありながら女神の眷属に戦いを挑んだ皇帝は、白銀の髪をなびかせながら戦斧を振るった戦乙女などと今や詩の中で謳われているのだ。その髪色は人の目を引きすぎる恐れがあった。それもこれも従者がこの日のために用意した装いである。そのヒューベルトはというと、いつもながらの黒ずくめで、まるで影のようにぴたりと主に寄り添っている。しかし、よくよく見れば宮城で見かける彼の出で立ちとは異なり、市井の人々が纏うものに近い、簡素な服装である。

 宮内卿がこんなものを用意するに至った理由をもたらしたのは、終戦からのわずかばかりの間で、世襲ではなく自らの実績でもって宰相の地位を得たフェルディナントだった。彼は皇帝に対して教育制度の改革を強く訴えると同時に、城下の街や彼の領地に足繁く通い、市井の者達と交わって現状の調査を行っているらしい。その彼が話のついでに語ったアンヴァルの様子が皇帝の気を惹いた。傍らで宮内卿が渋面をつくっているというのに、フェルディナントは請われるままに街の様子を話し尽くし、白磁の茶器に注がれた茶を干して颯爽と皇帝の前を辞していったのだった。

「フェルディナントが言っていたように、まもなく日が暮れるというのにずいぶんと人出が多いのね。この寒空にもかかわらず」
 主の呟きに、男はふっと口元を緩めた。
「寒いのであれば、宮城へ戻られますか? エーデルガルト様」
「そんなことを言っているのではないわ」

 戦争の終結によって帝都アンヴァルは戦前の活況を取り戻しつつある――。いや、七貴族の変以降蔓延っていた沈滞した空気さえも一掃する勢いで復興を遂げつつあった。市が立ち、人も物も多く行き交う。この季節は夜が急ぎ足で訪れるが、街のそこかしこに灯りが点ともされ、夜の長さをも楽しむのだという。それが実に見事な光景なのだと宰相は語り、エーデルガルトの好奇心を大いに擽った。あれこれと理由を付けて主を思い留まらせようと試みた宮内卿であったが、最終的にはこっそりと宮城を抜け出されるよりも、自らが護衛として同行することで妥協点を見出したはずではなかったのか。ぷい、と顔を背けるエーデルガルトの子どもっぽい仕草に、従者はやはりくつくつと喉の奥で笑うのだった。

「ほう。どうやら刻限のようですな」
 ヒューベルトの、手袋を嵌めた指先が指し示す方角が俄に明るくなった。街路樹に数多くのランタンが吊され、それぞれに灯りが点されたのだ。光の波はゆるやかに広がり、真冬の街を幻想的に彩る。
「綺麗、ね……」
 エーデルガルトの薄く色づいた唇がわずかに動き、吐息とともにかすかな声が零れ落ちた。それは傍らの従者に同意を求めるものではなく、無意識に口を衝いて出てしまった独り言だったのかもしれない。よって彼は肯定も否定もすることなく、眼前に広がる光景に見入っている主の横顔を静かに見下ろすのだった。

「ねえ、ヒューベルト」
 幼い頃から共に在った気安さか、それとも――。どこか甘えを滲ませた声が二人の間にあった沈黙を破った。薄紫色の目は今や眩い街の光景ではなく、これからの長い夜を楽しもうとする人々へと向けられていた。その瞳には彼らを羨む色がある。実にわかりやすい。ヒューベルトの口角が上がった。彼らは多くの人が行き交う大通りから離れたところにいて、アンヴァルの街並みを眺めていたのだった。
「この人の多さではよからぬことを企む輩が身を潜めることも容易いでしょう。なるべくならば、そのような危険から距離を置いていただきたいのですが――
 ちらりと横目で主を見て、彼は続けた。

「ただし、私もエーデルガルト様の御身をお守りするだけの技倆は持ち合わせているつもりです。――よろしいでしょう」
「前置きが長いわ。……でも、いいのね?」
 従者が頷いたことを確認すると、彼女はヒューベルトの二の腕に触れ、そっと引いた。
「ならば、行きましょう。ヒューベルト」
 光の洪水を背に、エーデルガルトは軽やかに笑った。
 そうして、二人は多くの人でごった返す大通りへと分け入ったのである。

 大勢の人間が集うこの時期を商機と見てか、大通り沿いにはちらほらと露店が見受けられる。士官学校に在籍していた頃、ガルグ=マク大修道院の門前にも市場があったが、戦後は宮城奥深くの執務室に籠もりきりとなっていたエーデルガルトにとってはやはり新鮮な景色なのだろう。小柄な彼女が爪先立ちとなって、人々の頭の間から露店を覗き込もうとする様には、ヒューベルトの口元にも淡い笑みが浮かぶ。しかし、雑踏の中にあっても従者が笑った気配を鋭敏に感じ取ったのだろうか。エーデルガルトは柳眉を吊り上げて彼を振り仰いだ。

「何を笑っているのよ?」
「いいえ、何でもございません。ただし、ここは大変に人が多い。くれぐれも――
「……きゃっ!」
 口うるさいヒューベルトが注意を促したのとほぼ同時に、小さな悲鳴が上がった。エーデルガルトの身体が押し退けられ、体勢を崩した彼女は従者の胸に飛び込む羽目に陥ったのである。ヒューベルトが主の華奢な身体を抱き留めながらも周囲を見渡すと、主の背に向けて舌打ちした後、連れの女とぴったり身体を密着させながら離れていく男の後ろ姿が目に入った。あまり風体のよろしくない男は、派手な化粧をした女にぐっと顔を近づけて何やら囁きかけている。その緩みきった横顔に、おそらく偶然ぶつかっただけであり、主の命を狙ったものではないと判断すると、すぐさまその男の存在を意識の外へと追いやった。主が無事ならば、それだけでいい。

「お怪我はございませんでしたか?」
「ええ、大丈夫よ」
 ヒューベルトの腕がゆるりと動いて、主の細い肩に触れた。はっとしたようにエーデルガルトが彼を見上げ、緑がかった金の瞳と薄紫の瞳が絡み合う。そっと引き寄せると彼女は目を伏せ、長い睫が影を落とした。そうして、何も言わず、ただその身を彼に委ねてきたのだった。
「今のようなことがあってはなりません。どうぞ、私の傍に」
「……そうね」

 主を庇いながら、長身の従者は器用に人の波間をすり抜けて歩いていく。つい今し方もこちらの存在にまったく気づいていない男女から主の身を救い出し、衝突を避けたところだった。
「あの、ヒューベルト――
 傍らの低いところから小さな声がした。
「どうかなさいましたか?」
「……いいえ」
 幾重にも巻き付けた襟巻きに半分ほど埋まった顔が赤い。エーデルガルトは落ち着きなく目を彷徨わせている。その理由はすぐに知れた。

 また一組、男女がこちらに向かってくるが、彼らは軽い口づけを交わし合ってヒューベルト達などまるで眼中にない様子だ。そのままではぶつかってしまうところ、彼は主の身を街路の端に避難させて苦笑した。ずいぶんと男女の二人連れが目に付く。彼らは眩い景色などそっちのけで身体を寄せ合い、つい今し方の男女のように人目を憚らず街路の中央で口づけを交わしているのだ。妙に甘ったるい声までが漏れ聞こえてくる。彼女も目の遣り場に困るわけだ。

「この美しい景色が人気を呼んで、逢い引きする者も多いのだと聞きましたが――どうも、連中は景色などどうでもいいようですな」
「逢い引き……」
 菫色の瞳を丸くして、エーデルガルトが繰り返した。彼女は熟れた林檎のように頬を染めながら、背の高いヒューベルトを上目遣いで見上げた。
「……私達も、そういう風に見えるのかしら、ね」
 彼女の言葉に、恥じらいつつもどこか誘うかのような態度に、男の喉が鳴った。
「さて、どうでしょうな」
 白い息とともに吐き出した声がひどく掠れていることを、彼自身も自覚した。

――エーデルガルト様」
 身をかがめて彼女の耳に極力抑えた声を吹き込む。周りの者に聞かれて彼女の正体を知られることを避けるためでもあるが、彼の意図は別のところにあった。
「……っ!」
 びくりと大きく身体を震わせた後、彼女は耳元を押さえながら睨み上げてきた。しかし、透明な膜の中で揺らぐ瞳に力はない。目論見通りの反応を引き出したヒューベルトは、まるで舞踏に誘うような優雅さで主の手を引いたのである。

「……」
 街路の眩い輝きも届かぬ、薄暗い路地裏。そこへ彼女を引き込み、壁に両手を付いてその身体を閉じ込めてしまう。エーデルガルトは冷たい壁を背に、静かに、じっと男を見上げていた。
「よろしいですかな?」
 鼻の先が触れ合いそうなほどの近さで、ヒューベルトは問うた。彼女は答えの代わりに瞼を閉ざし、顔を上向けたのである。
 それを了承の印と取って、彼は冷え切った薄い唇に己のそれを押し付けた。すると、首に細い二本の腕が回され、同時に小さな舌がするりと割って入ってきたのだった。

「んっ……ふっ……ヒュー、ベル……トッ……」
 濡れた唇から零れ落ちた甘い声が、身体の芯を擽る。
 こうした触れ合い方はすべてヒューベルトが教えた。彼女は優秀な生徒であるだけに留まらず、貪欲だった。彼がやってみせたことを真似し、良い反応が返ってきたことは逐一覚えて、会得していくのだ。

「はっ……」
 堪らず声を上げると、エーデルガルトがうっすらと目を開いた。そして、白皙の肌が上気しているのを、片方だけ覗く金の瞳が情欲に揺らいでいることを確認すると、口元に笑みを刻み、再び目を閉じて口づけに没頭していく。自らの舌を男のそれと擦り合わせ、吸い上げる。一方のヒューベルトも、壁に付いていたはずの両手を忙しなく動かし、まろい身体の線をなぞっていくのだった。厚手の外套の下に秘められている身体がどんなに柔らかく、魅惑的であるか――この手はよく知っている。

「……エーデルガルト様」
 彼女が息継ぎをした瞬間を逃さず囁きかけた。二人の間を繋ぐ銀糸がぷつりと断ち切られる。不服そうに眉根を寄せる主に苦笑いを浮かべながら、宥めるように口の端から零れている唾液を親指の腹で拭ってやる。
「このままではお身体を冷やします。続きは戻ってからに――よろしいですね?」
 彼女はこっくりと頷いて、最後にもう一度だけとばかりにヒューベルトの胸に頭をもたせかけた。
 その肩を抱き寄せながら、美しい光景をそっちのけで抱き合っていた恋人達のことを笑えまいと自嘲するヒューベルトであった。