女神に背く夜

 煌めくシャンデリアの光も、楽団による軽やかな円舞曲も届かない、女神の塔。大広間で開催されている舞踏会を抜け出してきたエーデルガルトは一人、塔の階段をゆっくりと登って最上階へと辿り着いた。いや、正確には――
「ヒューベルト!」
 宝石箱をひっくり返したかのように星々が瞬く夜空を見上げたまま、彼女は振り返りもせずにその名を呼んだ。
「付いてきているのでしょう? 隠れていないで出てきたらどう?」

 凜とした声に応えて空気を震わせる笑い声が起こり、薄暗い空間により一層濃い影が現れ出でる。
「気づいておいででしたか」
 うっすらと笑った従者に対して、ようやく彼女は目をやった。
「貴方の気配くらいわかるわ。貴方が私の警護としてここまで付いて来るだろうってこともね」

 視線を塔の外へと戻すと、エーデルガルトは白銀の長い髪を払い除けて深い溜め息をついた。
「お疲れのようですな。まあ、引っ切りなしに誘われていたようですから、無理からぬことでしょうが」
 彼女は黒鷲の学級アドラークラツセの級長として、そして、何よりもフォドラ大陸の半分を支配するアドラステア帝国の次期皇帝として、多くの貴族達が学ぶこの士官学校にあっても一際目立つ存在である。一曲踊り終える度に他の男子生徒から舞踏の相手を申し込まれ、息つく暇すら与えられなかったのだ。このままでは舞踏会が終わるまで踊り続けることになりかねないと踏んで、抜け出して来たのだった。

「そうね、確かに疲れたわ。元々舞踏会にはいい思い出がないし、ああいった雰囲気が苦手だと、貴方も知っているでしょう?」
 ヒューベルトの記憶にある限り、帝都アンヴァルで催されていた数多の舞踏会において、皇女エーデルガルトは常に主役の座に君臨していた。きらびやかな礼服に身を包んだ貴族の子弟達が皇女殿下の相手役を射止めようと互いに牽制し合う様は、喜劇としては中々の見物であった。思い思いの華やかな衣装を纏った令嬢達でさえも、広間の中央で優雅に踊る彼女に羨望の眼差しを向けたものだった。だが、従者として知る彼女の姿は、皇女としての気品と威厳に満ちた立ち振る舞いとは裏腹に、気乗りしない様子で重々しい溜め息をつく横顔であった。

 アンヴァルの宮城きゅうじょう、皇女の私室での一幕を思い起こしていたヒューベルトである。
「星が綺麗ね。この季節は空気が澄んでいて、星がとてもよく見えるわ。ちょっと寒いけれども、悪くないわね」
「ですが、ほどほどになさいませんと」
「わかっているわよ」
 エーデルガルトは、「でも」と声を低めて続けた。
「もうしばらく、ここにいさせて」

 ヒューベルトは、主が何故この塔を訪れたのか、その理由を察していた。彼女の父、イオニアス九世もまた、かつてこの士官学校に在籍していたと聞いている。そして、卒業後にここを訪れた際に一人の女生徒と出会った。やがて彼女は皇帝の後宮に迎え入れられ、大勢いる妃の一人となる。妃は皇女を生み――それがエーデルガルトだ。ここの生徒達の間でも広まっている、まるで歌劇のような話である。フレスベルグ家の影たるベストラ侯爵家の嫡子として生を享けたヒューベルトも、当然のことながら知っている話だ。

 しばらくの間、彼女は星空を見上げながら沈黙していた。その細い肩を、小さな背中を、従者は静かに見守り続ける。
「ねえ、ヒューベルト。貴方は知っている? この女神の塔にまつわる噂を」
 やがて、エーデルガルトは気を取り直したかのように声の調子を少し明るいものに変えて振り返った。その顔からはつい先刻までの憂愁の色は消え失せていた。
「一応は。今節はずっとその浮ついた噂で持ちきりでしたからな。嫌でも耳に入ってきたものです」
 ヒューベルトの返事はひどく冷淡なものだった。
「浮ついた、ね。貴方らしい物言いだわ」
 さすがに彼女も苦笑を禁じ得ない。

「星辰の節の今夜、この女神の塔で男女が願いを掛けると成就する――女神がその願いを叶えてくれる、だったかしら」
 目を伏せ、彼女はふふふ、と小さく笑った。
「私の願いも女神が叶えてくれるのかしらね?」
 薄闇の中、ぼう、と浮かび上がるエーデルガルトの姿。その静謐な美しさに亀裂が入り、烈しい光が生まれる。菫色の瞳が力強くきらめいた。
 主の意図するところを汲み取ったヒューベルトもまた、口角を上げて唇に笑みを刻む。

「貴方と私、ちょうどここに男女が揃っているわ。二人で願ったら、私の――いいえ、私達の大望を天上の女神は叶えてくれるのかしら」
 エーデルガルトは一旦言葉を切り、不敵な笑みを浮かべる。
「自らに連なる女神の眷属を滅ぼし、フォドラを人間の手に取り戻す――本当にそんなことを女神はやってのけるのかしら」
「物は試しです。今、ここでそれを願ってみますか」
 応じるヒューベルトの口調にもまた面白がる響きがあった。
「いいえ、無駄なことはやめておきましょう。誰かがやってくれるだろうなんて、何もせずにただ座して待つつもりなど元よりないわ。私達の手で実現させてみせるのよ。――そうでしょう、ヒューベルト?」

 従者は同意を示すために胸元に手をやり、一礼した。
「エーデルガルト様、お手を」
「手?」 彼の言葉に、不思議そうに目を瞬かせて小首を傾げるエーデルガルトであったが、それでも何ら躊躇うことなく、目の前に差し出された男の手に自身の小さな手を載せた。
 恭しく主の手を取った男は、長身を屈めて白手袋を嵌めた手に、触れるか触れないかという近さに薄い唇を寄せた。そして、そのままの姿勢で顔のみを上げる。片方だけ覗く金色がかった瞳が炯々とした光を放っているのだった。

「貴方様が私に進むべき道を示してくださったあの日より、この身のすべてはただ貴方様のために。貴方様が征く覇の道こそが私の進む道――
 まるで歌劇の台詞のような言葉だ。しかし、一切の虚飾のない、この男の真の心であることを、エーデルガルトはよくよく知っていた。
 彼女は小さく息を吐いて、微笑む。
――そうね。貴方にはどこまでも、共に来てもらうわ」
「ええ。お供いたしましょう」

 エーデルガルトは差し出された従者の手を取り、彼の掌と己の掌を合わせた。男の手は、彼女のものよりも一回りも二回りも大きい。
「気が重いけれど、そろそろ戻らないと……
 そう口にしながらも彼女はその場から一歩も動かず、合わせた手の指を戯れのようにゆっくりと絡めていくのだった。
「エーデルガルト様を踊りに誘おうと、お戻りを待ちわびている輩も大勢いることでしょうな」
 喉の奥でくつくつと笑う従者は、彼女の好きなようにさせている。

「やめて頂戴」
 もう一方の手も伸びてきて、ヒューベルトの肩にそっと置かれた。それに呼応するかのように男の手がエーデルガルトの腰に添えられる。まるでこれから踊り出すかのように向き合った二人――
「でしたら、エーデルガルト様に声を掛けてくる輩を片っ端からひねり潰すとしましょうか」
「それも止めて頂戴」

 女神の目も届かぬ星空の下。
 しばしの間、二人は踊り出すでもなく、じっとそのまま立ち尽くしていたのである。