お気に入りの、その訳は

 それは、休日の昼下がりのこと。
 ヒューベルトはガルグ=マク大修道院の広大な敷地内を、ゆったりとした足取りで歩いていた。気ままに散策しているようでいて、実のところ行き交う人々――特に司祭や騎士団の人間の様子を注意深く観察している。この行動はもはや習性ともいうべきだろう。それとなく各施設にも目を向けるが、学生の身分である彼には立ち入りの許されていない箇所も少なくない。古参の司祭ですら、この大修道院の全容は把握し切れていないのだという。いずれ彼の主はセイロス聖教会を相手に兵を挙げることになるだろう。その際には、まず最初に教団を象徴するこの大修道院の攻略を攻め落とす。だというのに攻略に必要な情報は秘され、こちら側が掌握することもままならない。何とも頭の痛い問題だ。

 思い思いの休日を過ごす生徒達の声も届かない、奥まった場所に差し掛かった時だ。見慣れた緋の色が視界の隅を掠め、ヒューベルトは足を止めた。見紛うはずもない。それは彼の主が纏っている色である。
――! エーデルガルト様っ」
 遠くに見える主が蹲っているように見え、ヒューベルトは駆け出した。しかし、その姿が近づき、幸せそうに緩んだ横顔と彼女の目の前にある存在を認めるに至り、彼はその足を止めた。どうやら、らしくもなく早合点してしまったらしい。長く息を吐き出し、呼吸を整える。そうして、何事もなかったかのように、今度はゆっくりと主の方へと歩みを進めるのであった。

「エーデルガルト様」
 ヒューベルトの呼びかけに、彼女は顔を上げた。しゃがみ込んでいるエーデルガルトが背の高い彼の顔を見るには、ほぼ真上に顔を向けねばならなかった。そんな主の目の前にいるのは、全身を黒色の毛で覆われた猫である。猫は主が与えたであろう魚を一心不乱に貪り、新たに現れたヒューベルトには見向きもしない。その魚は彼らの在籍する黒鷲の学級アドラークラッセを受け持つ教師、ベレスに分けてもらったものだろうか。彼女もまた、釣り堀で釣り上げた魚や課題の討伐で手に入れた肉を猫や犬に与えている姿を大修道院の随所で目撃されているのだ。

「あら、ヒューベルト。何か用かしら?」
「いいえ。ただ、姿をお見かけしたものですから」「そう」 従者がやって来た理由が特にないと知ると、エーデルガルトは黒猫へと視線を戻した。そして、白い手袋をはめた手で猫の背をそっと撫でては目を細めている。そこには冷厳な皇女の姿はない。年相応の無邪気な娘がいるばかりである。彼女本来の姿を、ヒューベルトはどこか眩しい思いで見つめる。一方の黒猫の方はすっかり慣れているのか、触れてくる手を気にする様子もなく、食事に夢中になっているのであった。

 こうして主が大修道院内に居着いている猫と戯れている姿を、ヒューベルトは幾度か目にしている。彼女が愛でている猫は決まって黒猫だった。彼はふと頭に浮かんだことをそのまま口にしていた。
「エーデルガルト様が黒猫をお好みなのは、貴方様のフレスベルグの名を冠するからですかな?」どうして、私が黒猫が好きだと思うの?」
 目の前にいる黒猫に視線を落としたまま、彼女はヒューベルトの何気ない問いには答えずに、反対に問い返してきた。傍らで立ったままでいる彼からは主の頭頂部しか見えない。

「幾度か貴方様が猫と触れ合っているところを目にしておりますが、いつも黒猫を相手にしておられるので、そう思ったまでです」
 エーデルガルトはそっと息を吐き出した。
「よく見ているのね」
「私はエーデルガルト様の従者ですから」
 もう一度、黒猫の背に手を伸ばした彼女だったが、ちょうど魚を平らげてしまった猫はするりとその手を逃れ、悠々とした足取りでさらに奥の方へと歩いて行く。そちらの方向に住処があるのかもしれない。エーデルガルトはこちらに見向きもせずに去って行く黒猫を、ただ見送っていた。

「さっきの答えだけれど――
 彼女はその場に残された魚の骨を拾い上げて立ち上がると、従者の隣に並んだ。
「それもあるのだけれど……
 菫色の瞳がヒューベルトに向けられる。彼女は薄い唇をわずかに開いて何かを言いかけ、しかし、緩く首を横に振って口を閉ざした。

……いいえ。そういうことにしておいて頂戴」
 何気なく思い浮かんだ、さして意味のない問いである。ヒューベルトはその意味を問い質しはしなかった。
「お茶にしようかしら。ヒューベルト、貴方も時間があるならば付き合って頂戴」
 明るい調子に変わった主の声が、彼を誘う。
「仰せのままに」
 そうして、二人は連れ立って生徒達が茶を愉しむ中庭へと向かったのだった。

 全身を黒い毛で覆われたあの猫は、いつも黒ずくめの従者にどこか似ている。
 その理由は、彼女の胸に秘められたままであった。