頭上に花冠、唇にはくちづけを

「――ん……薔薇、の、香り……?」
 心地よい微睡みから抜け出して、瞼を押し上げると同時に、かぐわしい香りがエーデルガルトの鼻腔を擽った。
「おはようございます。今朝はお早いお目覚めで」
 横から声をかけてきた男はかつての従者だった。ヒューベルトの顔を見て、エーデルガルトはこんなにも満ち足りた気持ちで目覚めた理由を知った。彼がここに、己の傍にあるからだ。玉座にあったときも彼は皇帝に最も近しい存在であった。変わらないようでいて、しかし、エーデルガルトの内面ではまったく違うのだ。二人の間に、今は皇帝と宮内卿という身分も立場もない。

 さほど広くもない部屋も明るくなり始めていた。窓に掛かっている帷帳の向こう側ではそろそろ陽が昇り始める頃だろうか。それほど早い時分だというのに、ヒューベルトはすっかり身なりを整えていた。彼の目の前にある小さな卓には溢れんばかりの白い薔薇があった。帝国歴において三番目の節、花冠の節。その由来となった白い薔薇を好んで育てている者は少なくなく、二人が住むこの小さな家の庭にも白い薔薇を植えていた。

「どうしたの、その薔薇は?」
 ゆっくりと起き上がって口を開いたエーデルガルトだったが、その声は掠れていた。彼女もヒューベルトも、すぐにその理由に思い至り、一方は赤面し、もう一方は小さく笑うのだった。
 ヒューベルトは作業の手を止めて、立ち上がった。水差しから杯に水を注いでエーデルガルトに差し出す。彼女は気恥ずかしさから礼を言えないまま、半ば奪うかのように受け取って一気に水を喉に流し込んだ。空になった杯を水差しの隣に置き、ヒューベルトはまた短剣を手にするのだった。

 この男がそのようなものを握っているといまだ物騒にも見えてしまうのだが、何のことはない、薔薇の棘を削ぎ取っているのであった。男の手が手際よく動く様を寝台の上から眺めていたエーデルガルトは、自分がまだ答えをもらっていないことにようやく気がついた。しかし、ヒューベルトが黙々と作業を進める様を眺めているうちにどうでも良くなった。伏せた目の睫の長さ、緩められた襟元から覗く首筋、器用に動く大きな手。それらがどこか色めいて見えるのは昨夜のことがあったからか――
 ヒューベルトは短剣を鞘に収めると、今度は白い薔薇を編み込み始めた。長身の男が妙に真剣な面持ちで花を編んでいる姿は不思議なものがあったが、やはり器用なものだ。

「花冠かしら? 貴方が花冠を作れるなんて、思ってもみなかったわ。誰かに教わったの?」
「いいえ。ですが、強いていえば貴方様が子どもの頃、姉君方と花冠を編んでいらしたでしょう? それを見ていたくらいですかな」
 ヒューベルトは花冠を少し離して、矯めつ眇めつ眺めている。花の角度が気になったようで、神経質そうに眉根を寄せながら直すのだった。

 ――覚えている。幼い頃、宮城の庭園に咲いていた白薔薇を摘んで、姉達と一緒に花冠をつくったことがあった。本当はひとりで作り上げたかったのだが、上手くいかずに姉達に手伝ってもらったのだ。幼いなりの自尊心は傷ついたが、『彼』に渡すつもりのものだったから――。自分だけで編んだ見栄えの良くないものより、きれいなものがいいに違いない。そうして、見事な花冠が完成したというのに、『彼』は頑として受け取ってくれなかった……
 眺めていただけで、こうも器用に花冠を作ってしまう男を見るのは面白くない。ほろ苦い思い出と相まって、エーデルガルトの口調は恨みがましいものとなってしまう。

「貴方、その時に私が作った花冠をもらってくれなかったわ」
「ええ。あの時の私は従者でしたからな。皇女殿下の『親しい者』などではない。ましてや――
 ヒューベルトは立ち上がり、寝台の方へ――エーデルガルトの元へとゆっくりと近づく。広いとはいえない部屋ではすぐのことだ。

『雨期の到来を前にして、白い薔薇で花冠を編み、想い人や親しい間柄の者に贈る――

 それがこの節の由来となった。
 エーデルガルトのすぐ目の前にヒューベルトがいる。彼は編んだばかりの花冠を、まるで皇帝の冠であるかのように恭しい態度で捧げ持っていた。
………………エル」
 その名を口にするまでに少しの間があったのは、かつて主であった彼女を、彼女と親しくしていた父親や姉達と同じように呼ぶことに慣れていないせいだ。
 何に対しても器用であるくせに、たまに妙なところで発揮されるこの男の不器用さが愛おしい。エーデルガルトは吹き出しそうになるが、男の神妙な面持ちに彼女もまた表情を改めた。

「誕生日おめでとうございます」
 祝いの言葉と共に、彼女の頭上にそっと花冠が載せられた。
 花冠の節二十二の日。幼い頃から繰り返し、時には文武百官や宮城前に詰めかけた臣民達から歓呼の声とともに上がった言葉。しかし、今日のこの日ヒューベルトから与えられた言葉は、他の何物にも代えがたいものとして彼女の胸に響いたのだった。
「ありがとう。嬉しいわ」
 喜びが抑えきれないのか、彼女はくすぐったそうにくすくすと笑う。
「貴方様にそうまで喜んでいただけて……何よりです」

 熱を孕んだ視線がエーデルガルトに注がれていた。その熱さに急に気恥ずかしくなって視線を逸らす。
 彼女はバサリと大きな音を立てて、真っ白な敷布を剥ぎ取った。驚きに、珍しく目をわずかに瞠るヒューベルトの前で、彼女は一度花冠を外して敷布を頭から被り、その上にちょこんと花冠を載せ直した。
「どうかしら? 似合う?」
 悪戯っぽく笑うエーデルガルトに、男の口元も綻ぶ。
「花冠の花嫁――ですか」

 花冠の花嫁。
 その由来は諸説あり、定かでは無いのだが、花冠の節に婚礼を挙げる花嫁は幸せになれるといわれている。多くの女性達は『花冠の花嫁』に憧れ、この節は多くの婚礼の儀が執り行われている。
 白い敷布を婚礼衣装の薄紗に見立てているつもりらしい。

「とてもよくお似合いですよ、……エル」

 帷帳の隙間から差し込んでくる朝の光がエーデルガルトに降り注ぐ。光の中で微笑んでいる彼女は、今から婚礼の儀式に臨もうとする花嫁、そのものであった。
 ヒューベルトは彼女の左手を取った。その薬指には、以前彼が贈った銀の指輪がある。値が張るような石などない、簡素な銀製の指輪に、ヒューベルトは何度もこれでよいのかと確認したほどである。エーデルガルトから返ってきたのは、彼と揃いの指輪で決して派手すぎないものがいいのだ、という主張だった。当然、ヒューベルトの左手薬指にも同じ銀色の指輪が光っている。

 取った手の指先に口づけが落とされた。それだけなのか、とエーデルガルトはやや恨めしげに男を上目で睨んだ。そんな反応も想定済みだったのか、ヒューベルトは彼女の腰に手を回し、華奢な身体を引き寄せるのだった。
「きゃっ!」
 頭上から花冠が転がり落ちて、エーデルガルトから小さな悲鳴が上がる。彼女とヒューベルト、二人が同時に花冠を押さえてなんとか事なきを得た。
「せっかく貴方が作ってくれて、貴方が贈ってくれた花冠だもの。……よかった」
「そんな風に思っていただけて、嬉しいですよ」

 鼻先が触れ合いそうなほどの距離でヒューベルトは囁き、一度、二度と唇を合わせると軽い音がした。至近距離で見つめ合い、どちらからともなく瞼を閉ざすと、その口づけはあっという間に深いものとなる。
 指と指とを絡め合い、二人はともに褥に沈んだのだった――

 その日。小さな村の外れに立つ家の煙突から、はじめて炊事の煙が立ち上ったのは日がずいぶんと高くなってからだったという。