その名で呼んで

「ヒューベルト!」
「はい、エーデルガルト様」
 子ども特有の甲高い声に、やはり少し高い少年の声が応える。しかし、声色に反してひどく落ち着き払ったものであった。
 従者の返事にエーデルガルトはたちまち膨れっ面になってしまう。

「それよ!」
 左手を腰に当て、右の人差し指をヒューベルトに突きつけた。
「それとは――何のことでしょうか?」
 実に年齢に見合わない、人を食ったような態度である。エーデルガルトが何を言いたいのか、察しのいい彼にわからないはずはないのだ。彼女は眉を吊り上げて地団駄を踏んだ。

「どうして、お父さまやお姉さま達のように『エル』って呼んでくれないの!? 『エル』って呼んでって言ったじゃない!」
 家族の中でも父帝や特に親しい姉妹達は彼女のことを『エル』という愛称で呼ぶ。皇女は以前から同じことを忠実なる従者にも求めているのだが、少年がその言いつけを守ったことは一度たりともなかった。

「私は従者ですから」
 少年は慇懃な態度で胸に手を当て、腰を折った。
……従者だから何だというのよ!」
 まだ幼い彼女にしてみれば、常に自身の側に付き従っている従者の少年と、家族との間に明確な境界線は存在しないのだろう。何しろアドラステア帝国皇帝として大陸の半分を統べる父帝と顔を合わせる機会よりも、この少年と共に過ごす時間の方が圧倒しているのである。

――ヒューベルト」
 エーデルガルトは従者との距離を詰めて、彼を見上げた。頬を紅潮させたその顔は、愛らしい容姿には似つかわしくないほどに険しい。
「私のことは『エル』って呼んで。これは――、これは……その……

 ほとんど表情の変わることのなかったヒューベルトの顔に、突如困惑の色が垣間見えた。最初こそ勢いのあった主だが、途中で何やらうろたえ始めたのである。急に声の調子が弱まり、落ち着きなく目を泳がせている。
「どうなさいましたか、エーデルガルト様?」
 主の言いつけに従うつもりはないとあえてそう呼んでみたヒューベルトであったが、返ってくると予想していた反発はなかった。

 ――これは命令よ。
 エーデルガルトはそう続けようと思ったのだ。けれども、何か違うような気がして、その言葉は呑み込んでしまった。
 親しいきょうだい達と同じように『エル』と呼んでほしいのだけれど、大事なのは名前ではない。『エル』と呼んでくれる父やきょうだい達は彼女にとって『特別』で、胸の裡のもっとも大切なところに存在する。ヒューベルトにもその場所にいてほしいのに――。ただ、それだけのことなのに。

……『エル』と呼んで」
 つい先ほどまでとはまったく違ったしおらしい様子で、しかしなおも同じ言葉を繰り返す主に対して、ヒューベルトは頷くことはできなかった。
「エル。従者を困らせては駄目よ」
 背後からやわらかな声を掛けられ、エーデルガルトは慌てて振り返る。そこには少し年の離れた姉が穏やかな微笑みを湛えて立っていた。

 彼女達が今いる場所は宮城きゆうじようの中庭であった。大樹の節も半ばを過ぎて、降り注ぐ陽光は温かく、時折通り過ぎていく風も爽やかで心地よい。エーデルガルトは従者を伴っていつものようにこの中庭で遊んでいて、姉もまたこの陽光に誘われて自室から出てきたのであろう。彼女は美しい装丁の本を胸元に抱えていた。

「困らせてなんかいないわ」
 大好きな姉の、優しい眼差し。しかし、今はそれを真正面から受け止めることができなくて、エーデルガルトはぷい、と顔を背けた。むしろ、困っているのは自分の方なのだと言いたい。ヒューベルトに『エル』と呼んで欲しいだけのことなのに、何度言っても彼は自分の望みを叶えてくれない。――どうしたら、彼は『エル』と呼んでくれるのだろう。

「あら? そうかしら?」
 少し屈んで自分の目を覗き込んでくる少女を、エーデルガルトはぼんやりと見上げるのだった。そんな妹にクスリと笑いを漏らした彼女は言った。
「ねえ、エル。とてもいい天気だから、今からここでお茶にしない?」

 中庭には散策の途中で休息できるよう、小さな卓と椅子も設えてある。この場所で皇家の人間や彼ら彼女らと親しい貴族が茶を楽しむ光景はよく見られるものだった。
「お姉さまは本を読みにきたのではないの?」
 エーデルガルトは姉の抱えている分厚い本を見つめた。
「ええ。そのつもりだったのだけれど、ここでエルに会ったから一緒に過ごしたくなったの。駄目かしら?」

 優しく、大好きな姉から茶に誘われて、否という答えがあろうはずもない。
 大きく頷く妹に彼女は笑みをさらに深くして、妹の後ろでひっそりと影のように佇んでいたヒューベルトに目をやった。彼はすべて心得ているとばかりに深々と礼をして、主とその姉姫のために茶の用意をするよう伝えに、その場を離れる。主の姉に付いている従者は二人の皇女のために場を整えていた。主エーデルガルトのためであれば手ずから茶を淹れたいところなのだが、沸かし立ての湯の扱いはいまだ禁じられている。自分の失敗で主に怪我をさせてしまったらどうするつもりだと窘められたが、主の前で失態を犯すつもりなど毛頭ない。そのための準備――練習は怠らないつもりだが、その主張は聞き入れられなかったのだ。

 ほどなくして中庭の片隅で茶の用意が調えられ、二人の皇女の笑い声が晴れ渡った蒼穹へと吸い込まれていく。
 エーデルガルトの目は丸い卓の上に置かれた本へとまたしても引きつけられたのである。
 ――まるで宝石箱のように綺麗な本。
 彼女も本を読むのが大好きだ。つい先日はアドラステア帝国の成り立ちを描いた本を読み終えたばかりである。自身の先祖だという立派な人達がたくさん出てくるのだが、残念ながら面白いものではなかった。

 こんなにも美しい装丁の本には、どんな物語が詰め込まれているのだろう。自分も読んでみたいと強請ったが、姉には「エルにはまだ早いわよ」と笑われてしまった。笑われたのは悔しいけれども、姉がそう言うからにはとても難しい本なのだろう、『れんあいしょうせつ』というらしい。ヒューベルトにも読んだことがあるのか尋ねてみたところ、彼は妙な顔をして、「ございません」とだけ答えてくれた。何でも知っている彼も読んだことのない本だと思うと、余計に気になる。

「エル。ほら、この焼き菓子も美味しいわよ」
 姉の美しい指先がつまみ上げた焼き菓子がすぐ目の間にある。エーデルガルトは菓子と悪戯っ子のような笑みを浮かべている姉の顔とを交互に見比べ、親鳥から食べ物を分け与えられる雛のようにその菓子を頬張った。口の中でほろほろと崩れ、優しい甘さがいっぱいに広がった。
 すっかり菓子に気を取られ、姉の本のことは追いやられてしまった。ヒューベルトに対して癇癪を起こしていたことも忘れ、彼女は大好きな姉とのひとときを堪能したのであった。

   ◇   ◇   ◇

――ゆ、め……?」
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、長年見慣れていた天蓋ではなく、板張りの天井が目に入ってきた。この光景にも馴染み、朝目覚めた際に自分がどこにいるのか、戸惑うことも今はない。
 エーデルガルトは寝台の上で起き上がり、両腕を上に伸ばした。

 どうやら、子どもの頃の夢を見ていたらしい。夢に現れた姉は優しい声で『エル』と呼んでくれた人だったが、記憶もおぼろげでもうその顔をはっきりと思い出すこともできない。しかし、悪夢の中で変わり果てた姿で現れるのではなく、胸にぽっと暖かな火を灯すような思い出として姉の夢を見たのは、初めてのことかもしれなかった。

 エーデルガルトはさほど広くもない部屋の中を見回した。アドラステア帝国を――ひいてはフォドラ大陸の未来を託すことのできる後継者に王冠を譲り渡した後、彼女は帝都アンヴァルの宮城から姿を消した。帝都から少し離れたこの村で、幼少の時分から己の従者を務めてきたヒューベルトとひとつ屋根の下で暮らすに至るまでは紆余曲折があったのだが、それはまた別の話である。

 二人で身を寄せ合って眠るのには十分な大きさである寝台だが、皇帝の寝所にあった豪奢なものとはかけ離れている。それ以外の家財道具も質素なつくりのものばかりであるが、二人で話し合って購入したり、時にはヒューベルトが慣れぬ大工仕事に汗を流しながら作ってくれたものだ。宮城で暮らした年月に比べればこの家での生活はまだ短いものだったが、彼女はすっかりここでの暮らしに馴染んでいた。
 傍らを見れば、隣で眠っていたはずの男の姿がない。しかし、腹の虫を刺激するよい匂いが彼の所在を明らかにしているのだった。

「おはよう、ヒューベルト」
 厨房に足を踏み入れると、長身の男が振り返った。白いシャツの袖をまくり上げ、腕が露わになっている。彼は竈の上でぐつぐつと煮立っている鍋の様子を気にしながらもエーデルガルトの方へと歩み寄ってきた。狭い厨房の中だ、すぐのことである。
「おはようございます、エル」
 彼の次の行動を予想して、エーデルガルトはそっと目を閉じた。期待した通りに、唇にぬくもりが触れ、小さな音を立てて離れていった。共に暮らすようになって習慣となった、二人の朝の挨拶である。

「何か手伝えることはあるかしら?」
 再び竈に向かうヒューベルトの広い背に声を掛けると、今度は振り向きもせずに返事が返ってきた。
「では、茶の用意をお願いします」
「テフではなくて?」
「ええ」

 エーデルガルトはクスリと笑うと、棚から茶葉の入った缶を取り出した。かつての彼女達を知る者で、二人が今ここで暮らしていることを知っている人間は限られているが、その限られた古い友人が送って寄越したものだった。彼からの荷の中には当然ヒューベルトが好むテフ豆もあった。
 慣れた手つきで揃いの茶器に琥珀色の茶を注ぐと、ふわりと柑橘の香りが立ち上る。さすがは彼が選んで寄越した茶葉だ。芳しい香りに目を細めながら、エーデルガルトは口を開いた。

「今朝方、夢を見たのよ」
「夢……
 男の肩がぴくりと動き、その声が緊張を孕む。かつての主はよく悪夢にうなされていた。さりげなく夢の内容を問うてもはぐらかされて教えてはもらえず仕舞いだったのだ。盗み見るかのように彼女の横顔を窺えば、厨房に差し込む朝日に浮かび上がる彼女は、ヒューベルトの不安など吹き飛ばすかのように穏やかに微笑んでいた。

「そう、子どもの頃の夢よ。貴方、私が何度言っても『エル』とは呼んでくれなかった」
「それ、は……
 男の反応に、エーデルガルトはさらに笑みを深めた。
「今だって、こうして『エル』と呼ぶことに慣れるまで、ずいぶんと時間がかかったものね?」
 菫色の瞳をきらめかせ、悪戯っぽく笑う。二人とも年を重ねたが、彼女は時折少女の頃のような顔を覗かせるのだ。

 自身はもう皇帝エーデルガルトではないし、貴方もベストラ侯ではない。二人の間にあった主と従者という繋がりは、もはや存在しないのだ。彼女はそう主張して、親しかった人達と同じように自身を愛称で呼ぶことを、改めてヒューベルトに求めた。自らベストラ家から離れたことにより、彼は「従者であるから」というかつての言い訳を使うことができなくなってしまったのだった。

 ヒューベルトは大抵のことは器用にこなすが、時折妙なところで不器用さを発揮する。エーデルガルトに対する呼び名についてもそうだった。子どもの頃は求められてもわざと『エーデルガルト様』と呼び続けていたが、いざ改めようとしても長年の癖はなかなか抜けてはくれない。さらには、「エル様」「『様』はいらないわ」というやり取りも幾度となく繰り返され、近頃ようやく自然に『エル』と呼べるようになったのだった。

 溜め息をつく彼に、エーデルガルトはころころと笑っていたが、急に表情を改めた。
「ねえ、それ。そろそろいいんじゃないの?」
 ヒューベルトの背後から、鍋の中身を覗き込んでいた。
……! ああ、すみません。そのようですな」
 やや慌てたように、彼は火の始末をするのであった。

 二人が共に暮らすようになり、食事の準備は交代で行うことが取り決められた。時には一緒に料理をすることもあるが、どちらかが厨房に立つことが多い。そして、少しばかり困ったことが発覚した。二人の食の好みが見事なまでに合致しなかったのである。彼らが共に好む品はごく限られており、だからといって毎食同じ物というわけにもいかない。

 ヒューベルトはいつもエーデルガルトが好む品を用意する。今鍋の中で湯気を立てている魚と豆をよく煮込んだスープも、彼女が好む品の一つだ。テフではなく茶の用意をと言ったのも、自分の好みよりもエーデルガルトの好むものをという、彼の気遣いだろう。だから、彼女もまた、自分が当番の時にはヒューベルトの好物を用意する。もちろん、テフもだ。早速今日の昼食はエーデルガルトが支度をすることになるのだが、さて、何を作ろうか。それもまずは朝食を済ませてからのことだ。

「ねえ、ヒューベルト」
「はい、何でしょう? エル」
 二人は顔を見合わせて微笑み合う。
「冷めないうちにいただきましょう」
「ええ、そうですね」
 彼女達は食卓に向かい合って腰掛けて、今日一日をどのように過ごすか話し合いながら、ヒューベルトの手製の朝食に舌鼓を打つのであった。