逆転遊戯

隣の男が離れていく気配を感じて、エーデルガルトは枕に押し付けていた顔を上げた。自ら背を向けたはずだったが、彼の気配を追うように振り返る。
「ヒューベルト……?」
その名を呼ぶ声はいつもよりも弱々しく――、甘く、切なげに聞こえるのは気のせいではないだろう。
白磁の頬は紅潮し、乱れた髪が汗で顔に貼り付いている。そして、男の名を呼ぶ声はほんの少しばかり掠れていた。

胸元を寛げただけの男は寝台から降り立って、力なく横たわる主の肢体を見下ろした。彼とは対照的に、女の夜着はもはや四肢に絡みついているだけの布と化している。しなやかな背中から、形のよい臀部へと視線を動かす。両の脚はぴたりと閉じているが、その最奥では熱く、とろけるような蜜が溢れかえっていることを、男の唇は、舌は、知っている。合わせた脚をもぞもぞと動かし、それに合わせて丸い尻がわずかばかり揺れていることも、彼の目は逃していない。

ヒューベルトは薄い唇を一舐めして、目を細めた。前髪に隠されて片方だけが覗く瞳。その視線に絡め取られ、エーデルガルトはぞくりと身を震わせた。いまだ燻り続けている欲情が身体の芯から四肢へと、徐々に侵していく。
従者は広い寝台から少し離れた低い卓の上に置かれた銀製の水差しを手に取った。用意してあった脚付きの杯に水を注ぐとすぐに戻ってきて、主の目の前に差し出した。

「喉が渇いているでしょう、どうぞ」
エーデルガルトは緩慢な動きで寝台から身を起こした。従者の指摘通りだ。それに――。
「声も嗄れていますな」
「誰のせい、だと……っ」
ヒューベルトによる執拗ともいえる愛撫によって何度も高みに押し上げられては、快楽の波に呑まれたことか。決してこの男以外には聞かせることのできない声でうわごとのように更なる愛撫を強請ったことも覚えている。彼を咎める声がかすれていることも言う通りだ。

彼女は黙ったまま、それでも上目遣いで睨み付けながら杯を受け取った。水差しと揃いの銀製の杯は、注がれた水の冷たさを伝えてくる。氷魔法によって冷やされているのだろう。
杯に口を付けると、柑橘の果汁で香り付けされた水が喉を通っていく。彼女の好きな紅茶と同じ香り。主さえもからかう素振りを見せながら、そのすべてを把握しているとでも言わんばかりの手回しの良さだ。従者として優秀すぎる男の、付け入る隙のない完璧さが少し恨めしくもある。

主の視線に込められたものを知ってか知らずか、ヒューベルトは寝台に腰を下ろした。手が伸びてきて、汗で貼り付いた白銀の髪がそっと優しく払い除けられた。
「エーデルガルト様。よろしいですかな?」
耳元に吹き込まれる低い声は、いつもより艶めいて女の耳朶を震わせる。先ほどまでの行為の、続きを懇願する声。何もかも先回りをするくせに、こういった時は許しを求めようとするのが、また狡い。けれど、エーデルガルトもまた焦がれているものを得るには、この男の口車に乗るしかないのも癪に障る。
彼女は許しの合図として男の広い胸に身を委ねようとしたが、すんでのところで思い留まった。

「ねえ、ヒューベルト」
菫色の瞳が、悪戯を思いついた子どものように輝く。幼い頃、座学を怠けようと言い訳を繰り出そうとする時の顔を思い起こさせる。ヒューベルトの主はいずれの講義においても極めて優秀な成績を示したが、時折厳格な教師の前でじっとしているのは耐えられないとばかりに良からぬ企みを巡らしたのだった。
だが、今彼の目の前にいるのは幼い少女などではなく、成熟した肢体を持つ女だ。

「貴方が私に命令してみせて」
「――は?」
ヒューベルトは虚を突かれて、細い瞳を見開いた。いつも取り澄ました顔をしている従者から、そんな表情を引き出したことにエーデルガルトは喜ぶ。
「いつものように私に命じさせるのではなくて、貴方が私に命令するのよ。どうしたら、いいのかしら。ヒューベルト様?」
「つまりは、主従の役割を交換した遊戯、というわけですか」
「そう、そういうことね。飲み込みが早いわね、ヒューベルト……、様」

長年親しんだ呼び方は簡単に改められるものではなく、自らが仕掛けたにもかかわらず、さっそく間違えてしまうエーデルガルトであった。
慌てて付け加えた主に、ヒューベルトはくつくつと喉を鳴らして笑う。
いつだったか、彼女が逆の立場になってみたいと言っていたことを思い出す。あの時はすぐに本気ではないと否定していたが、存外本当にそのような願望を抱いていたのか。それとも、二人で交わした会話を覚えていて、このような遊戯を思いついたのか。しかし、そんなことはどうでもよい。主の思いつきに乗ってみせるのも従者の役目だろうか、と、彼は主が求めていることと真逆のことを考えているのだった。

「私が貴方様に命じればよいのですな? ただ、貴方様に様付けで呼ばれるのはどうにも身の置き所がない。いつも通りでお願いしますよ」
「そうね……、慣れないのは私も同じだわ。じゃあ、命じてみせて、ヒューベルト」
男は唇の両端を吊り上げて笑みを深めた。果たしてその表情はエーデルガルトの目に入っていたのだろうか。

彼は無遠慮に寝台に乗り上げると、仰向けになる。
「エーデルガルト様は、私の上へ」
落ち着き払った声がいっそ忌ま忌ましいほどだ。すぐにはその言葉に従わず、無言のまま見つめていると、男はかすかに笑った。
「気が進まぬというのであれば、やめますか」
そうではないことを知っているくせにわざとそんなふうに言う彼に、女は少しばかり唇を尖らせてみせた。
「意地が悪いのね」

エーデルガルトは纏わりついているだけの夜着を引き剥がし、彼の上に跨がって薄く笑う顔を見下ろした。ヒューベルトが手早く下衣を寛げると、燭台の頼りない灯りの下、すっかり勃ち上がった屹立が姿を現す。その様子に、女もまた同じ表情になるのだった。散々高みへと押し上げられたが、そうしていながら彼の欲棒もこれほどまでに膨れ上がっていたのだ。
彼女は昂ぶりに触れると、蜜を滴らせる秘裂に宛がった。

「まだですよ」
しかし、その手をやんわりと押さえ付けられてしまう。
「……えっ?」
「もうしばらく我慢なさい。これは『命令』ですよ」
薄明かりに浮かび上がる片方の瞳に射竦められ、厳然とした声に命じられた。閨で焦らされることはあっても、命令という言葉が伴って強要されることはなかっただけに、彼女の身を縛り付ける言葉にぞくりと背筋が震える。彼女の反応を正確に感じ取った男は、白い繊手せんしゅを捕らえていた手でするりと腕を撫で上げた。

「――ぅんっ……!」
彼女の身体はどこもかしこも容易く快感を拾い上げてしまう。触れられただけで唇を軽く噛み、身を捩って甘い喘ぎ声を上げるエーデルガルトの姿は実になまめかしい。そのさまを下から見上げているだけで、欲棒に一気に血が集まり、はち切れんばかりである。
「ねぇ、ヒューベルト……、あっ、んふぅ――!」
快楽に溶けた目を向けながら、彼女は細い腰を揺り動かして秘所を固く、熱い昂ぶりに擦り付けた。よいところに当たるのか、悦びの声を上げ、うっとりとした顔で快感を味わっているようだ。熱い蜜を纏う、やわらかな秘唇が欲棒を刺激して、ヒューベルトも思わず息を詰めてしまう。

男のわずかな反応をも逃さず捉えたエーデルガルトは、更なる快楽を強請るように腰を揺する。
「――なりません、ッ……よ……」
ヒューベルトは口の端を吊り上げたかのように見えた。その反面、心なしか声は掠れ、女の耳朶を妖しく擽る。それだけで、身体の最奥からまたもや蜜が溢れ、その感覚に彼女は身を震わせるのだった。

女の肌に触れていた大きな手はゆっくりと動き、宙を彷徨うかのような様子を見せてから、エーデルガルトの頬を指先でなぞった。閨以外で、ヒューベルトが直接触れてくることはない。もっとも近くに在る存在だったが、二人でいる時でさえも目に見えない壁がまるでその間にあるかのよう。だからこそ、手袋で隔てられることない、血が通っていないのかとさえ言われることも多い男の、大きくあたたかな手がこうして肌の上を滑っていくような感覚で、いとも容易く身体の奥底から情欲を引きずり出されてしまうのだ。

少しかさついた指先は頬の辺りで数度往復を繰り返した後、唇に触れた。まるで紅を刷くような仕草で戯れる指先に、悪戯心を起こしたエーデルガルトは小さな舌を出してちろりと舐める。すると、男は唇の間から長い指をするりと滑り込ませたのだった。
「……ぅ、ん――ッ!?」
彼女が驚いた表情を見せたのは一瞬だけ。すぐに男が意図したことを汲み取って、ちゅう、とわざとらしく音を立てて吸い上げる。あたたかく、ぬめった口腔内。奥へと引き込もうとする動きは、己の楔を彼女の膣内に埋めた時を思い起こさせた。

ヒューベルトの指は丹念に、執拗に女の口腔内を愛撫した。もう一本指を差し入れ、二本の指をばらばらに動かしてそれぞれ別の所を刺激する。手つきは優しく、細心の注意が払われていることははっきりと伝わるのに、喉奥の近くまで指先を受け入れて、まるで犯されているかのような錯覚に、それでいてもたらされる悦びに、エーデルガルトは惑い狂う。固くなった肉棒に蕩け切った秘唇を擦り付けながら、彼女は自らを極みに追い込んでいった。

「とてもい顔をされていますよ」
唇の端から溢れかえった唾液を垂れ流し、うっすらと涙の膜を張った瞳で見つめてくる彼女の姿はなんとも煽情的だ。あってはならない嗜虐心が頭をもたげてくるようで、ヒューベルトもまた身体の奥底で燻る熱を持て余していた。
彼が指を引き抜くと、エーデルガルトは安堵と落胆がない交ぜになった複雑な表情を浮かべる。誇り高い彼女の物欲しげな様子に愉悦を覚える、男の浅ましさ。内心では己をせせら笑いながら表面上はすべてを覆い隠して、彼女のほっそりとした腰を屹立に秘裂を宛がうように導いた。菫色の瞳が期待に輝き、白い喉がかすかに鳴ったのを感じ取る。

「私はこうしてただ見ています。自ら動いて達してみせてください」
そうして、自分は何もしないということを強調するように、両手を敷布の上に投げ出した。
「あっ――、はふっ……、んんっ、あ、いい――っ、……!」
散々に焦らされ続けたエーデルガルトは、躊躇うことなく膨れ上がった欲棒を呑み込んだ。蠕動する内側の襞が男の形に添うようにぴったりと包み込む。あまりの気持ち良さにヒューベルトも眉根を寄せて耐えたが、目を閉じて自身の中にいる男を味わい尽くし、歓喜に打ち震えている彼女は気づいていない。

「ぁんっ――、ぅ、やぁっ……、あ、あっ――!」
快楽に従順に従い、エーデルガルトは自ら腰を揺り動かす。男の切っ先がとりわけ感じるところを掠めたときは、身を捩って悦びの声を上げた。いつもより淫らがましく振る舞う彼女に、繋がり合ったところはぐじゅぐじゅと淫猥な水音を立てるのだった。
彼女の動きに合わせて白い乳房が揺れ、その突端、桃色の蕾がふるふると震えている。投げ出していた手を伸ばしてそれを摘まみ、充分に手加減をしながらも軽くねじると、しなやかな肢体がびくりと跳ねる。まるでそれが仕掛けになっているかのように、男の昂ぶりを包み込む襞がきゅっと反応して締め付けてくる。

常日頃は理路整然とした論を紡ぐ唇が、今は意味を為さないうわごとを繰り返すばかり。獣欲に突き動かされるままに男の欲棒を貪っていた女が、ふと目を開いて横目でヒューベルトを見た。
「――あ、なた、も……っ、気持ち、い、――いっ……?」
「ぇ、ええ……っ、もちろん、です――よ……」

浅い息を繰り返すエーデルガルトばかりでなく、己の限界もまた近いことを感じ取った男は、彼女の名を呼んだ。
彼が何を言うつもりなのかを察したエーデルガルトは、甘ったるい啼き声を上げながら首を横に振る。乱れた銀色の髪が彼女の動きに従って広がる。
「駄目、よ――、このまま……っ。お願、い――」
ヒューベルトが尚も咎めようとするも、その前に視界が眩い光で埋め尽くされ、身体が攫われるような感覚に襲われたのだった――。

「これは何の真似ですかな……?」
心地よい疲労感に身を任せながらも、ヒューベルトは怪訝そうな面持ちでそちらを見た。しどけなく横たわる己の両脚の間、エーデルガルトが蹲るようにそこにいた。男の手は長い銀の髪を緩慢な動きで梳いていたが、髪の手入れに一際強い拘りを持っているはずの女は、するがままにまかせている。彼女は男が吐き出した精と自らの蜜が絡みついた陰茎に赤い舌を這わせていた。時には先端を丸呑みしたり、雁首のくびれたところを尖らせた舌先で愛撫したりしている。

エーデルガルトは上目遣いに男を見つめ、ふっと婀娜めいた笑みを浮かべた。
「朝まで貴方に『ご奉仕』してあげるわ」
「まだ遊戯の続きですか……」
溜め息とともに吐き出された言葉を、しかし彼女は無視をした。すると、一転して男の瞳に面白がる色が浮かび上がる。
「仕方がありませんな。では――」
ヒューベルトの指先がするりと女の頬を撫で、顎を捕らえて顔を上向かせた。
「私の『命令』を聞いていただきましょうか。――夜明けまで」