ただ我のみぞ知る

赫々かくかくと燃え上がるような太陽が西の海に沈みゆく。
まるで影のような痩身が、一切の無駄を排した動きで広大な庭園を歩いている。片方だけ覗く細い目は、彼が求める姿をすでに捉えていた。
見事に刈り込まれ、整えられた低木が連なる道、石造りの彫像、瀟洒な四阿。何もかもが茜色に染め上げられる中、彼の主は静かに佇んでいた。強い風が吹き付け、彼女の長い髪をなびかせる。毎朝丁寧に梳られて白銀にきらめく髪も、今は夕陽の色を映していた。

「エーデルガルト様。間もなく日も落ちることでしょう。すでに風も冷たい。いつまでもこんなところにいることはお勧めできませんが」
従者は靴音を響かせることなく主に近づいて声をかけたが、彼女は突然現れたかのような男に驚いた様子はない。
「平気よ、ヒューベルト。お説教はいらないわ」
最初から男の存在がわかっていたのか、抑揚のない声が返ってきた。従者がいる後ろを振り向くことはなく、瞳は宮城をぐるりと囲む城壁の更に向こう、西の空へと向けられたまま。

孤月の節も半ば。冬の間は姿を隠すことも多かった太陽もあたたかな日差しをフォドラの大地に降り注ぎ、草木も眠りから目覚め始めている。しかし、従者の言うように、エーデルガルトの頬をかすめていく風は昼間とは打って変わって冷気を孕んでいた。
「武術師範として送り込んだ彼からの定期連絡――は何度言っても寄越しませんからな。我がベストラの者を使いに遣りました。その者からの報告が」

従者の言葉にエーデルガルトは小さな溜め息を吐き出した。そうして初めてヒューベルトに向き直る。どうやら気儘に一人きりで過ごすことのできる時間は終わったようだ。そもそも次代の宮内卿となる男は主に断りもなく護衛の者を付けているはずで、彼女が本当に一人きりになれる時間など皆無に等しい。 「わかったわ。続きは私の部屋で聞くから、付いてきて」
従者が慇懃に一礼するよりも早く、エーデルガルトは彼の横をすり抜けていったのだった。

優美な仕草で茶器を持ち上げると、柑橘の香りが鼻先をくすぐる。琥珀色の茶を一口口に含むと、エーデルガルトは存外自分の身体が冷えていたことを知る。従者の忠告は確かに正しかった。茶器を卓上の受け皿に戻すと同時に、無意識のうちに息をつくのだった。

それを見計らったかのようにヒューベルトが口を開く。何を取り引きに使ったのかは知らぬが、こちら側に引き入れた一人の貴族の名を挙げる。
「彼女の口利きも上手くいったようで、計画通りに事を運べるかと。何よりもあの腕で武術師範としての絶大な信を獲得しているとか。相変わらず何を考えているのかがわからぬ上に多くを語らないと使いの者は申していましたが」

年が明けると同時に、エーデルガルトと彼女の従者は揃ってガルグ=マク大修道院に併設されている士官学校に入学することになっていた。もう間もなく、二人はガルグ=マクに向かうため帝都アンヴァルを発つ。
「ガルグ=マクでは貴方様の入学がちょっとした話題になっているようですよ。しかも――」

「ファーガス神聖王国の王子ディミトリ、レスター諸侯同盟盟主リーガン公爵の孫クロード。この二人も入学の予定なのでしょう?」
主の言葉にヒューベルトはくつくつと笑う。
「ええ。三国の次代の指導者がガルグ=マクで顔を揃えるとは。面白いことになったものですな」
「そして、私達にとっても都合がいいわ。同じ学び舎で過ごすことで様々な機会があることでしょう。……そう、色々と、ね」
「左様ですな」

二人の会話はなおも続く。従者の報告に、エーデルガルトは熱心に耳を傾け、時折り端的な言葉を差し挟む。
残光を背にした主の、菫色の瞳が力強く輝いていた。白磁色の頬にもわずかに赤みが差す。
それはあの日、彼女が宮城の地下から出てきてまもなく。彼に行くべき道を指し示した、あの時の眼に宿っていた光と同じだった。

「ヒューベルト。どうかしたの?」
主の瞳に気を取られた彼を、当の彼女は怪訝な顔で見ている。
「いえ、何も。……しばらくここを離れることになりますが、お寂しいですか。いや、貴方様は以前にもこの国を離れたことがありましたな」
十年近く前のことだ。幼い少年の手から、さらに小さな手はすり抜けていき、届かないところに行ってしまった。らしくないと自分でも思うが、棘が刺さったかのような痛みを今でも覚えるのだ。

エーデルガルトも昔を思い出したのか、ぼんやりとした目を宙に向けている。何もかもが変わってしまった幼い日。しかし、視線はすぐに従者の元に戻ってきた。
「あの時はいつまで続くのかわからなかったもの。でも、今度は一年だけ。一年したら、私はここに戻ってくる。そして、その時には――」
ヒューベルトは主の頭上に黄金の輝きを見る。
それを今知るのは――。