一輪の薔薇に誓いを

 それは月のない、新月の夜のことだった。
 夜露を孕んだ風がヒューベルトの頬を撫でていく。彼は周囲にまるで蜘蛛の巣のように神経を張り巡らせながらも、悠然とした足取りで歩いていた。

 男は闇の中に沈むガルグ=マク大修道院の威容を見上げた。幼い頃から仕える主と共にこの大修道院に併設された士官学校に入学したのは前節のことだ。九九五年の歴史を有し、フォドラ大陸の人々の信仰を集める大修道院の姿が彼の眼前に聳え立つ。
 ヒューベルトはわずかに唇を歪めると、ひどく醒め切った瞳を逸らした。そして、足音も立てずに彼が寝起きしている寮へと向かったのだった。

 この夜、ヒューベルトは寮の生徒達が寝静まった頃を見計らって修道院を抜け出していた。
 現在の帝国において唯一の皇位継承者である彼の主がこの士官学校に入学したのは、父である皇帝イオニアス九世の若い頃に倣ったともいえる。しかし、それだけではない。主は――いや、主と彼は胸の裡に燃やす大望のために、ここガルグ=マクへとやって来たのだ。ヒューベルトは、昼間は一生徒として学びながらも、夜は密かに主のために策動していたのである。この夜はガルグ=マク近くの街で、ベストラ一族の中でも彼直属の配下と顔を合わせる手はずとなっていた。

 ヒューベルトにとっては忌まわしい記憶である七貴族の変以降、主の父イオニアス九世は皇帝としての権能すべてを奪われ、宰相エーギル公を始めとする帝国の主だった貴族達の傀儡と成り果てていた。主と彼の味方は存在しないにも等しい。
 二人揃って一年の間帝国を離れるのである。ヒューベルトは自身の手の者に帝国の内情を探らせていた。一切の秘密が漏れぬよう、口頭によって配下の者から報告を受けた後に帝都アンヴァルへと帰し、彼は大修道院へと戻ってきたところだった。

 大修道院には警備の兵士も各所に配置されていたが、彼らの目を盗んで出入りすることなど、ヒューベルトにとっては造作もないことだ。フォドラの民が信奉するセイロス聖教会、その頂点に立つ大司教のお膝元にかような隙があるとは。彼は遠目に見える哨戒中の兵士を一瞥して、うっそりと笑う。

 ヒューベルトは闇に紛れるためにその長身を覆っていた黒色の外套を脱いだ。外套の下に身につけていたのは、士官学校の制服。寝付けず、気分転換のために外気に当たっていた――いくらでも言い訳は立つことだろう。
(……?)
 寮のすぐそばまで来て、男の感覚が何らかの気配を捕らえた。しかし、彼の手は腰に下げている剣に触れることはなく、かといって懐に忍ばせている暗器に伸びることもなかった。

 寮の建物に身を隠しているようで隠し切れていない二つの人影が寄り添っている。一つはヒューベルトよりもやや背が低いようで、もう一つはそれよりもさらに一回り小さい。どうやら男と女の二人のようだ。潜めた声が途切れ途切れ、風に乗って聞こえてきた。
(……なるほど。そういう者もいるのですな)
 二人は彼と同じく士官学校の生徒らしい。同級生達が寝静まった深夜、つかの間の逢瀬を楽しんでいるといったところか。ヒューベルトはすぐに二人の存在を意識の外に追いやり、寮の階段を上っていく。

 夜目の利く彼はすぐにその存在を感知した。片方だけ覗く細い瞳をすこしばかり大きく開き、次いで溜め息をそっと吐き出したのだった。
(また、か……)
 ヒューベルトの部屋の一つ手前が主エーデルガルトの部屋である。その前に小さくうずくまっている人影があった。彼の立っているところからは落ちかかってくる長い髪に半ば隠された横顔が見えるだけ。その腕の中からは二つの小さな光がこちらに向けられている。主の腕の中にいる猫、その二つの瞳が光の正体だ。彼が時々餌付けをしているせいか、エーデルガルトの部屋の前に来れば何か食べるものをもらえると学習した猫達が居着いている。今彼女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしているのは、そのうちの一匹なのだろう。

 ヒューベルトは主が気がつくであろうくらいの、控え目な足音をわざと立て、ゆっくりと近づいていった。
「ヒュ、――」
 菫色の瞳が彼の姿を認め、紅を引いていなくともほんのりと色づいている唇が彼の名を呼ぼうと動きかけた。けれども、男は主の傍に跪いてエーデルガルトと目線を合わせ、長い人差し指を口元に当てる。それを見て、彼女も言葉を呑み込んだのだった。

『こんな夜更けにどうしたのです?』
 しん、と静まり返っている寮の廊下。ヒューベルトは主にだけ聞こえるように囁きかけた。
 エーデルガルトの二つの瞳がじっと見つめ返してくる。
 ――貴方こそ、こんな遅くにどうしたの。
 彼女はそう言いたいのであろう。士官学校を抜け出してどこへ行き、何をしていたか、彼は主には何も告げていなかった。

『寝付けませんか』
 さらに言葉を重ねると、彼女はふい、と顔を背けた。それが答えだ。主は王国への亡命から戻ってより、度々うなされては夜中に飛び起きるということを繰り返していた。昼日中は賑わっている寮が寝静まっているという、こんな時分にも関わらず主は眠りにつかず、夜気によって冷え切った廊下で猫を抱いている。彼女の姿を目にした瞬間の溜め息の理由はこれだった。

『気分転換に夜の散策というのはいかがですかな』
 見れば彼女もまたヒューベルトと同じく制服を着用したまま。黒鷲の学級(アドラークラツセ)の級長であることを示す学級章を下げている。
 エーデルガルトは従者の冗談めかした口調に菫色の瞳を丸くしたが、すぐに口元にかすかな微笑みを浮かべる。彼女が抱いていた猫をそっと床に降ろすと、猫は一声鳴いて悠然と廊下の向こうへと姿を消した――。

   *   *   *

 主と従者が連れ立って訪れたのは寮のすぐ近くにある温室だった。ヒューベルトがつい先ほど見かけた二人連れがいた場所と正反対の方向にあるからともいえた。彼はごく自然に主をこの温室へと誘導したのである。
 ちょうど薔薇の花が咲く季節で、温室に一歩足を踏み入れると、二人は芳しい香りに一気に包み込まれた。

 ふと見ると、エーデルガルトが身を竦ませて、自分の身体を抱きしめるように両腕をさすっている。彼はまだ手にしていた外套を主に着せかけた。しかし、長身の彼に合わせて仕立てられた外套は小柄な彼女には大きすぎた。
「貴方の外套が汚れてしまうわ」
 外套の裾を引きずるほどだが、ヒューベルトはまったく意に介しない。
「貴方様に風邪を引かせてしまうことに比べれば些末事ですな」

 そして、空いた手で懐を探っている。彼が取り出したのは細身の小刀。何をするのかと黙って見守っているエーデルガルトの前で、彼は一輪の薔薇に手を伸ばす。
 ――美しく咲き誇る、真紅の薔薇だった。

 茎に小刀を入れて摘み取ると、丁寧な手つきで棘を削ぎ落としていく。
 従者の外套に埋もれるような格好で、エーデルガルトはその様子を眺めていた。腰に剣を下げているとはいうものの、さらに懐からこんな得物がなんでもないことのように出てくる己の従者に、彼女の美しい顔には若干の呆れが滲んでいた。

 主がどのような表情をしているのか、その顔を目にしなくとも容易に察せられるはずのヒューベルトは、そしらぬ顔で作業に集中しているかのような様子を見せている。
「これを、エーデルガルト様に」
 指先を傷つける棘をすべて削ぎ落とした、一輪の薔薇が主に差し出された。
 丹精を込めて育てられたのだろう。女王然とした薔薇の、鮮烈な赤色に目を奪われる。

 ――まるで、血の色のような。
 ヒューベルトの視線の先で、主の指先がそっと薔薇に触れた。彼女はわずかばかり目を細めて、手の中にある真紅を眺める。
「綺麗ね……」
 エーデルガルトは囁くように言うと、瞳を閉じた。そして、甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
「それに、いい香り」

「私は、花のことなどよくわかりませんが――」
 ヒューベルトは細身の暗器を懐にしまいながら、かすかに笑った。
「ですが、貴方様によくお似合いだと思いますよ。――ええ、とても」

  一本の薔薇
    ――貴方しかいない