「どうかしら?」
耳慣れた声に、ヒューベルトはそちらに目をやった。リビングに新たに現れたのは同居人のエーデルガルトだ。二人、特に相手は同棲相手ではなく、単なる同居人であると何故だか強く主張している。彼女は浴衣姿で、黒地に大輪の赤い花が咲いた柄の浴衣がよく似合っていた。
「自宅から花火を見るのに、そこまでする必要もないと思いますが……」
テーブルに酒肴を並べていた手を止めて、彼女に向き直る。
案の定ヒューベルトの言葉に、エーデルガルトは眉根に皺を寄せ、頬を膨らませた。そんな表情をしても、彼女の美しさが損なわれることはない。
「そう申し上げるつもりでいましたが改めましょう。よくお似合いですよ」
本心をちょっとした意地悪に包み込んで告げる。目尻が下がり、珍しく柔和な顔を見せた。一緒に暮らしていても稀な男の表情に、自ら尋ねておきながらエーデルガルトは顔を赤める。これもまた、雰囲気作りとしてわざわざ手にしていた団扇でパタパタと忙しなく扇ぎ出すのだった。
「そっ、そう……。世辞でも嬉しいわ」
彼女の慌てぶりに、ヒューベルトは喉の奥でくつくつと笑った。
「もう。……そ、そうだわ。私も手伝うわよ」
「いえ。後は酒だけです。私が持ってまいりますので、エーデルガルト様は先にお掛けください。酒肴の調理も手伝っていただきましたし」
テーブルには酒肴が並び、ほとんど準備ができていた。ヒューベルトの手によるものもあれば、エーデルガルトが自ら調理したものある。
「……そう? じゃあ、お願いしようかしら」
ヒューベルトは頷くと、リビングを一旦出て行った。
今宵は、近くで盛大な花火大会が催されることになっている。二人が住むマンションの高層階の部屋からも、少し遠いが見ることができるのだ。エーデルガルトはもっと近くで見たいと駄々を捏ねたが、ヒューベルトとしては、彼女をあのような人混みに放り込むなど到底許容できるはずもない。結果、リビングからの花火鑑賞に落ち着いたのだった。大きく開いた窓に向けてテーブルやソファの位置を動かし、花火鑑賞なのだからと日本酒やそれに合わせた酒肴も用意した。極めつけは、エーデルガルトの浴衣姿である。長い髪も結い上げてうなじが覗き、ヒューベルトの目を惹きつけた。尚更、彼女を人混みの中に送り込むことなどできなかった。
「わぁ……!」
冷酒を傾けるヒューベルトの隣から歓声が上がる。窓の外に目をやると、黒に塗りつぶされたキャンバスの上に、色鮮やかな花々が咲き乱れていた。しかし、彼は傍らの『花』に目を戻す。菫色の瞳は食い入るように花火を見つめ、興奮と酒精で白い頬はうっすらと染まっている。甘い汁を滴らせる、瑞々しい桃のようだ。かぶりついてしまいたくなる。代わりに硝子製のお猪口を空にすることで、ヒューベルトは喉の渇きを誤魔化すしかない。
次の花火が上がるまでの間に、そんな男の心中も知らずに、上機嫌な笑い声が弾けた。
「ここで、貴方と花火を見るのも悪くないわね」
よほど機嫌がいいのか、いや、それとも酒のせいだろうか。声のトーンもいつもより高い。ヒューベルトは黙ったまま、彼女のお猪口に冷酒を注ぎ足してやる。
「ありがとう」
エーデルガルトは一口口をつけ、また、ころころと楽しそうに笑うのだった。
花火の終焉に、感傷的な寂しさを覚えるのは何故なのだろう。
新たな花火が打ち上げられる度にエーデルガルトははしゃいでいたが、すべてが終わってしまった今は、静かだ。ソファに深く凭れて、ぼんやりと黒一色となってしまった窓の外を眺めている。
ヒューベルトは、肩口にわずかな重みと温かさを感じて、視線を向けた。エーデルガルトが頭を凭せ掛けているのだ。
「エーデルガルト様?」
彼はさりげない風を装い、彼女のすべらかな頬に触れた。彼女は抵抗を見せない。それどころか、肩に掛かる重みが増す。
「貴方の手は、冷たいわね」
いつもより舌足らずな話し方だ。酔っているのだろうが、過ごした風でもなければ、気分が悪いようにも見えない。
「……気持ちがいいわ」
男の大きな手に、エーデルガルトの白い手が重なる。確かに、彼女の手は温かかった。そうして、彼女はすりすりと頬ずりをしてきたのだ。
ヒューベルトは空いている方の手で、エーデルガルトの手をそっと優しく引き剥がした。少し不機嫌そうな表情を浮かべた彼女が、男を見上げる。ヒューベルトの目から見たら、幼い子どもがぐずっているようにしか見えない。しかし、彼の手が顎を捉え、顔を上向けさせると、機嫌を直したようだ。男のこれからの行動を的確に予想し、期待をしている。瞼が閉ざされ、菫色の瞳が隠れた。
「んっ……」
ヒューベルトからキスをすると、甘い声が上がる。二度、三度とキスを繰り返した後、彼は突如、エーデルガルトの身体を反転させた。
「きゃっ! 何っ……!?」
ソファの背凭れに胸をつける姿勢を取らせ、自らはその背後に乗り上げて、両の太股で彼女の腰をガッチリと捕らえるのだった。
そして、浴衣の襟を寛げ、男を誘ううなじにキスをする。
「あっ……ダメッ――。見えるところに、痕をつけちゃ……!」
エーデルガルトは背凭れを掴んで、背中を反らせる。それが尻を突き出し、ヒューベルトに擦り付けていることには気づいていない。
見えるところが駄目だというならば、見えなければいいのだろうと、ヒューベルトは襟をさらに大きく広げて、引き下げた。
「着崩れ、しちゃ……ぅ……」
口づけて、吸い付いて、白い背中に花を咲かせていく。
「はぁっ……ここは部屋の中ですし……、んっ。他の者の目もありません。構わないでしょう」
キスの合間に男は無情に告げた。
「――ところで、エーデルガルト様」
ヒューベルトは、必死にソファにしがみついている彼女の耳元で囁いた。その低い声に、エーデルガルトはびくん、と身体を跳ねさせた。男はいつものように喉を鳴らして笑う。しかし、ヒューベルトの方とてそう余裕はないのだ。声は情欲によって掠れ、息も浅く、荒い。
「この帯はどのように解くので?」
浴衣の帯くらいなら、ヒューベルトであれば解くこともできたかもしれない。それでも、彼は意地悪く尋ねた。
エーデルガルトは何も言わない。
すると、男は先を促すように、ざらりとした舌で露わになっている背中を舐め上げた。
「あ、ぅんっ」
やがて観念したように、エーデルガルトの手が帯へと伸びる――。
花火は終わってしまったが、二人の夜はこれから始まるのだった。