差し出されたヒューベルトの手に、エーデルガルトの左手がそっと重ねられる。常日頃は赤い手袋によって隠されている彼女のたおやかな手には、似つかわしくない傷跡が無数に刻みつけられていた。しかし、ヒューベルトの目を奪ったのはそんなものではない。
――我が主の手は、こんなにも小さかったのか。
彼の手よりも一回りどころか二回りほども小さな手だ。
「ヒューベルト……?」
今にも掻き消えてしまいそうな声に我に返ると、菫色の瞳がじっと彼を見上げていた。長い白銀の睫に縁取られたそれは不安そうに揺らいでいる。
ここは皇帝の私室であり、窓の外が闇に沈んだ今、この部屋にいるのは彼女とヒューベルトの二人きりだった。髪を解き、ゆったりとした部屋着に着替えたエーデルガルトは、玉座に掛け、廷臣達を前にした時とはまったく違う趣である。
ヒューベルトは口の端をわずかばかり持ち上げて笑みの形をつくった。――微笑んだつもりだ。ちゃんと笑みになっていたかは自信がないが。
彼は慎重な手つきで、エーデルガルトの薬指に銀色の光を放つ指輪を填めた。ほっそりとした指を飾る輝きに、彼女はほうっと溜め息を零す。それは安堵に満ちていた。
今度は彼女がヒューベルトの手を取る。彼の手もまたいつもの手袋はない。エーデルガルトは同じように銀色の指輪をその節くれ立った長い指に通した。
そうして彼を見上げた娘の顔は、幼い頃そのままの無邪気な笑顔だった。
「ふふっ……ふふふ……」
エーデルガルトは頭をヒューベルトの胸に預け、まるで銀色の輝きがまぶしいとばかりに目を細めて翳した左手を見つめている。こうして熟れた林檎のように頬を染め、嬉しさと気恥ずかしさがない交ぜになった笑いを漏らす娘が、炎の女帝と呼ばれ、臣民に畏怖される皇帝だと誰が思うであろう。
ヒューベルトは白銀の髪を一房、掬い上げるように手にした。毎朝丹念に梳られ、艶をもったそれはするりと逃げていく。
ふと、エーデルガルトは笑いを収めた。細い指先で左手薬指の指輪を撫でながらも視線を落とす。
「あなたは、こういったものを好まないのでしょうけれど……」
「エーデルガルト様のお望みとあらば」
忠実なる従者にして、今は宮内卿として若き女帝の覇道を支える男からは、予想通りの答えが返ってくる。
「しかし、本当にこのようなものでよろしかったのですか? 貴方様の御身を飾る装飾品ともなれば――」
今やフォドラ全土をその手中に収めたアドラステア帝国の若き皇帝。その立場にあれば稀少で高価な宝石を手にすることも、帝都一の細工師に装飾品をつくらせることも思いのままだろう。しかし、今エーデルガルトとヒューベルトの左手薬指にあるのは、宝玉も精緻な細工もない、銀製の極めて簡素な指輪である。
「いいのよ。これがいいの。だって、これならばいつもの手袋を填めてしまえば外からはわからないでしょう?」
エーデルガルトはヒューベルトの左手を取り、己の右手と掌を合わせた。そして、男の指と指の間に、細く白い指をゆっくりと絡めていく。
「宝玉とか一級の細工師がつくった装飾品が欲しいわけではないのだもの。あなたと揃いの指輪であれば、それでいいの」
「――」
ヒューベルトは眉根を寄せ、口を横に引き結んだ。瞳が一瞬だけ強い光を放つが、彼の胸元に身を寄せているエーデルガルトがそれを見ることはなかった。彼はそっと目を伏せ、ふう、と息を吐き出す。次に見開いた時にはその瞳は凪いだ湖面のように静まり返っていたのだった。
いつもの表情に戻った彼もまた、絡みつく小さな手を覆うかのようにそっと握り込む。そして人差し指の腹で彼女の手の甲を撫で摩るのだ。それがくすぐったいのか、エーデルガルトはくすくすと笑い声を漏らした。
「ねえ」
彼女は凭れていた身を起こして、ヒューベルトを見上げた。
「こういう時って、口づけを交わして誓い合うものじゃなくて?」
男は緑がかった金の瞳を細め、くつくつと喉の奥で笑った。彼独特の笑い方だ。そして、彼はエーデルガルトに合わせて身を屈める。
「――そのようですな」
「ヒュッ……!?」
口にした名を中途半端に呑み込んでしまった。低く、深い声が耳を侵食し、全身の肌が粟立つ。そこが弱点だと知っている彼は、わざと耳元で囁いたに違いない。エーデルガルトは目の前の男を睨め付けるが、それもほんの一瞬のことでしかなかった。
ヒューベルトは空いている手で彼女の頬に触れる。ゆっくりと頬をなぞっていく彼の指先は少し冷たいと感じるのに、触れられたところは燃え立つように熱い。薄い皮膚の下でどくどくと激しく脈を打っていた。
頤に到達した指がそっと顔を上向けさせる。吐息がかかるほど近くに彼の顔があり、片方だけ覗いた瞳に、情けない顔をした己が映ってゆらゆらと揺れていた。エーデルガルトはたまらずにぎゅっと目を閉じてしまう。
闇の中で、男が笑った気配がした。
「――んっ……」
エーデルガルトの唇に、男のそれが重ねられる。薄く唇を開けば、するりと舌が忍び込んできた。
舌先で歯列をなぞり、奥で縮こまっている舌を捕らえて吸い上げる。まるで誘うかのように自ら唇を開いたというのに、ヒューベルトが踏み込むと彼女は逃げようとする。そんなことをしても、ますます口づけが深まるばかりだというのに。
世界から切り離されたと錯覚するほどの静寂に満ちた部屋で、エーデルガルトの鼻にかかった甘い声と、ヒューベルトが彼女の唇を貪る湿った音が密やかにこぼれ落ちる。絡ませ合った手を彼女が握り締めてきた。これもまた紋章の力ゆえなのか。その力は意外に強く、少し痛い。だが、そんな痛みすらも彼女が口づけに夢中になっている証左のように思えて、ヒューベルトの心に愉悦をもたらす。それと同時に、情欲に支配された獣を閉じ込めた、理性という名の堅牢な檻を突き崩してしまうのだ。
「ヒュー、ベルト……」
甘い唇を解放してやると、涙の膜を張った菫色の瞳が何かを期待するようにじっと見上げてきた。どちらのものともつかぬ唾液に濡れ、より一層艶めいて見える唇が己の名を呟くのを捕らえ、ヒューベルトは口角を上げた。
勝手知ったる皇帝の私室。彼は主を寝所へと誘うのだった――。
◇ ◇ ◇
つい先刻までなまめかしい女の貌を見せていた主も今は深い眠りの中にあって、その表情は幼い頃を思い出させるあどけないものだった。ヒューベルトの闇に慣れた目は、淡い光を放つかのようにぼうっと浮かび上がる白い肌や、流れる白銀の髪を見下ろしていた。
敷布の上にぱたりと投げ出された左手、その薬指を飾る銀色の指輪に目を留め、次いで自分の左手にある同じものを眺めた。ああは言ったけれども、想い人と揃いの指輪というものも存外悪くない。より一層細められた目は珍しくも穏やかであった。
眠りを妨げることのないよう、細心の注意を払って彼女の手をそっと取る。
ヒューベルトは、銀色に輝く指輪に己の薄い唇を押し当てるのであった――。