まだ恋を知らない

 少年――いや青年は主の姿を求めて宮城の庭園を歩いていた。翠雨の節は時に烈しい嵐に見舞われるものだが、この日は青天が広がり、灼けつくような大陽がじりじりと大地を焦がしていた。しかし、青年は暑さなど感じていないような顔つきで、巻物をいくつも抱えて歩いている。ひょろりと痩せた、長身の青年だった。彼はこの年の大樹の節に十八歳を迎えた、ベストラ侯の嫡子ヒューベルトだ。

 ヒューベルトはふと足を止めた。高く、澄んだ歌声が聞こえてきたのだ。年若い少女の声である。ひどくもの悲しい曲調の、彼も聴いたことのある歌だった。

 その歌を聴いたのは彼の主――皇女エーデルガルトが王国へと亡命するよりも前のこと。帝都の歌劇場でのことだった。エーデルガルトの伯父アランデル公は彼女を伴って歌劇場へと赴いた。彼の妹の娘で、殊の外可愛がっていた姪に奇跡の歌声、マヌエラ=カザグランダの舞台を見せるためだった。公は当時すでに少女の従者となっていた少年にも声を掛けたのである。

「ベストラ候が嫡子、お前も一緒に来るといい。父の後を継ぎ、やがては宮内卿として皇帝の傍近くに仕える身であろう。なれば、芸術への理解も必要というものだ」
 大好きな伯父と歌劇を観に行くとあって、ヒューベルトの主ははしゃいでいたが、彼には歌劇など正直どうでもよかった。ベストラ家に生まれた者の使命はただフレスベルク家の影となり支えること。芸術など必要ない。しかし、常に父からきつく言われているように、ベストラ家の者として、彼自身の命を賭してもエーデルガルトを守らねばならず、二人を見送って宮城に残る、という選択肢はなかった。

 ヒューベルトに歌い手の善し悪しというものはわからなかったが、マヌエラが稀代の歌姫であることはなんとなく理解した。彼の主も彼自身も話の筋は今ひとつわかっていなかったが、エーデルガルトなどはマヌエラの華やかさ、美しい衣装にうっとりと夢中になっていたのだった。

 エーデルガルトは強烈な日差しを避けて東屋にいた。こちらには背を向けて、マヌエラが歌っていた歌曲を口ずさんでいる。悲哀に満ちた旋律が熱を孕んだ風に乗ってヒューベルトの元へ届けられる。彼は主に声を掛ける機会を見失い、ただその場に突っ立っているばかり。腕の中に抱えたいくつもの巻物がずり落ちそうになり、彼は慌ててそれらを抱え直すのだった。

 少女の声は澄んだ美しいものだったが、歌の技倆は歌姫マヌエラと比べるべくもない。ところどころ旋律があやふやなのか、自信のない箇所になると途端に小さな声になってしまうのはどこか愛らしかった。
 結局その曲が終わるまでヒューベルトはその場に立ち尽くしていたのだった。エーデルガルトが歌い終わって、その余韻も消えていく頃。ようやく青年は動き出した。草を踏む音に彼女は振り返り、菫色の瞳を瞠った。

「ヒューベルト! もしかして、ずっとそこにいたの?」
「いえ、たった今こちらに参ったところですが」
「嘘でしょ、聴いていたくせに」
 青年は隠し事が上手かったが、さすがにエーデルガルトも彼が嘘をついているのだとわかったのだろう。

「まあ、いいわ。貴方なら、皇女が上手くもない歌を歌っていた――なんて、言いふらしたりしないだろうから」
 確かに帝都の歌劇場の舞台に立つ歌姫達には到底及ばないであろう。しかし哀切に満ちた歌声は、あの歌劇の女主人公の心情に迫っていたと、ヒューベルトは門外漢ながらに思うのだった。けれども、それは口にはしない。主はつい先ほど聴いた歌のことなど、さっさと忘れてほしいのだから。それに、彼には言い付けられた仕事があった。エーデルガルトの目も従者が抱えている巻物に留まる。

「また姿絵ね。伯父様から? それともエーギル公からかしら」
 歌っていたところを目撃されて恥ずかしがっていた少女から一転、年に見合わぬ妙に大人びた表情へと切り替わる。その声もずいぶんと冷え切ったものとなる。かつての少女は伯父アランデル公を慕っていたが、その関係も数年前を機に大きく変わっていた。
 ヒューベルトが抱えているものは、帝国貴族の子弟達の姿絵であった。

 千年の歴史を持つ帝国の皇位継承者。彼女の未来の伴侶は皇配となる。エーデルガルトが夜会など社交場に姿を現すようになってからは格段に持ち込まれる姿絵が増えた。それらは宰相として実権を握るエーギル公、皇女の伯父であるアランデル公を介してエーデルガルトの元へ届けられる。彼女の父親にして現在の皇帝たるイオニアス九世は、彼らの傀儡として帝国貴族らには見向きもされていなかった。
「アランデル公からです」
「そう」

 エーギル公は自身の息がかかった貴族の子弟達の姿絵を送り込んでくる。やがて皇配となる者、そしてその者の家門を介して、エーデルガルトが皇帝となった後も実権を掌握するつもりなのだろう。また、それ以外にも、皇女の元へ姿絵を届ける見返りを懐に収めているという噂もある。

 帝国の摂政、皇女の母親の兄として皇女に影響力のある人物と見られているアランデル公の元にも多くの姿絵が舞い込んでくるらしい。
「じゃあ、貴方が私の代わりに姿絵を見ておいて」
 アランデル公は、かつてヒューベルトもいる前で姪にこう言った。
『姿絵を見て顔を覚え、夜会でその者に会ったならば気を持たせる態度を取っておけ。伯父の欲目ではなく、お前の微笑みひとつで相手は舞い上がるであろうからな』

 エーデルガルトの婚姻は、彼女の意思や感情は一切入り込む余地もないままに決定されるだろう。彼女の父もそうであった。エーデルガルトは父と同じ道を行くことになるのであろう。歌劇のような恋愛など自分には無縁なのだ、と彼女は冷めた心で理解していた。

 エーデルガルトが先ほど歌っていた歌曲。あれは、歌劇の冒頭で歌われたもので、貴族の令嬢である女主人公が落ちぶれた家のために決められた、望んでいない結婚を嘆くものだった。歌劇の中ではその後、彼女を心から愛する青年が現れて彼女を助け、彼女もまた青年を愛するようになり、二人は結ばれる。特に青年を愛する喜びを歌い上げる女主人公の歌曲は超絶的な技巧がふんだんに盛り込まれていて、舞台上で技巧のみならず情感たっぷりにその女主人公を演じ切ったマヌエラは圧巻であった。

 彼女は己の身をあの女主人公と重ね合わせていたのだろうか。しかし、現実は歌劇の筋書きのようにはいかないものだ。
「公はエーデルガルト様に姿絵を確認させるようにと、私に命じられました」
 彼女が従者に対して言いそうなことも予想して、予め釘を刺していったようだ。周到な公らしい。
「……仕方がないわね、一応は見ておくわ。私の部屋に運んでおいて頂戴」
「はい」

 気乗りはしないが、アランデル公の息がかかっている、または公に接近しようとしている貴族が何者なのか、エーデルガルトもヒューベルトも把握しておかなければならない。
「それから今宵はそのアランデル公の夜会が」
 この夜は帝都アンヴァルに公が所有する屋敷で夜会が催される予定で、姪のエーデルガルトも招かれていた。
「面倒――、いいえ、気が進まないけれど、すっぽかすわけにもいかないわね。ヒューベルト、部屋に戻って支度をするわ。着替えの手伝いに侍女達を寄越して頂戴」
「畏まりました」

(中略)

「んっ……んんっ――、ふぅっ……」
 少女は躊躇うことなく、従者の胸元に口づけを落とした。白い肌に赤い紅の痕が付けられる。彼女は胸の突端に唇で軽く触れると、小さな舌を出してその周囲をぺろりと舐め上げるのだった。
「うっ――! エーデルガルト様、それは……」
「気持ち良かった? じゃあ、こっちもしてあげる」

 言葉通り、反対の胸も同じように触れられる。さらには突端を上唇と下唇の間に挟み、やわらかく食む。この国で最も高貴な少女がまるで娼婦のように自身の身体を愛撫している。目に映る光景は倒錯的で、しかし若い雄の劣情を煽る。
「エーデルガルト様、何故このような……」
「私もこの年よ。閨でどう振る舞うか、どうしたら男の人を悦ばせることができるか――そういった教育を受けているわ。貴方様のお役目はこの帝国を継ぐお子をお産みになることですってね。……後宮の妃達と変わりはしない」

 彼女はヒューベルトの脇腹を擦りながら、さらに続ける。
「貴方がいない時の周囲の女達がどれだけ口さがないか、貴方に聞かせてあげたいわね」
 そう言って、臍の近くに口づける。ヒューベルトの肌にはいくつも紅の痕が残され、扇情的な姿となった。
「ねえ、これはどうやって外すの」
 彼女が触れているのは下衣の端だ。留め具の外し方を聞いているのだろう。

「エーデルガルト様、ここまでです」
 そこは痛いほどに張り詰めている。だが、今ならまだ後戻りはできるはずだ。ヒューベルトは主に言い聞かせようとするが、彼女は耳も貸さない。
「外し方を教えて。それとも、貴方が自分で外す? でなければ、壊してしまうわよ」
 彼女なら冗談ではなく、本気でやってしまいかねない。胸のうちに燻る劣情に負けて、ここまで来てしまったところで遅かったのだろう。後戻りできる地点をヒューベルトは見誤った。闇の中、エーデルガルトの瞳は未知への興味と興奮できらめいている。

「……仕方がありません。自分でやりますので」
 ヒューベルトが自ら下衣を寛げると、隆々とした屹立が現れた。少女は初めて目にするモノに息を呑んだ。
「男の人のってこうなっているのね」
 知識だけは詰め込まれたが、実際に目にするのは初めてのこと。エーデルガルトは長い裾を物ともせずに床に跪き、目を逸らすことなく昂ぶりを見つめた。ヒューベルトのそれは、若い熱情で膨れ上がっていた。

「そう、まじまじと見つめられると――、う、くぅっ……!」
 快感に、思わず呻き声が上がる。竿の部分を両手でそっと握った彼女が、舌で先端を舐めたのだ。いきなりの快感に声を抑えようとしても遅かった。
「気持ちいいの?」
「……ええ」

 不承不承といった態でそれでも肯定するヒューベルトに、少女の口角が上がった。彼女は口を大きく開くと、亀頭を丸呑みした。
「あ、はっ――!」
「ねへ、ひゅーへるほ……」
「ぐっ……、私を咥えたまま、喋らないでいただけますか」
 ヒューベルトは眉間を寄せて快楽に呑み込まれまいと耐えている。白皙の頬もうっすらと染まっている。その様は何とも色めいて見え、エーデルガルトは胸を高鳴らせた。こんな彼をもっと見たい。

 従者の陰茎を解放し、エーデルガルトは指先で先端を撫で回しながら尋ねた。
「ねえ、ヒューベルト。どうしたら貴方をもっと気持ち良くさせてあげられるかしら。教えて?」
 主の白く美しい手が、己の漲った陰茎に添えられている。最も敏感なところにやわらかく触れられて、さらには上目で見上げながら、小首を傾げたのだ。絹糸のような白銀の髪がさらりと流れていく。