背教者たちの誓い

「ヒューベルト」
 低く、陰鬱な声に自身の名を呼ばれて、少年は足を止めた。
「何でしょう、ベストラ候」

 わざと面倒くさそうに振り返った彼は、自らの父をそう呼んだ。大人びた風貌、細身ではあるもののずいぶんと背も高く、年相応の少年らしさは欠片も見られない。薄い唇から溜め息とともに発せられた声色はすでに低いものへと変わっていた。
 ベストラ侯爵はそんな息子を鷹揚な態度で眺めていた。父の顔付きに、ヒューベルトの口元がわずかに歪む。表情の変化を悟られまいと懸命に堪えるが、おそらく侯爵には息子の心の動きなどすべて筒抜けなのだろう。

「エーデルガルト殿下が宮城にお戻りになった」
「エーデルガルト様が――!?」
 無力だった自分への憤りと、父への深い憎悪とともに、その名を思わぬ日など一日たりともなかった。父の声を通してその名を耳にした瞬間、胸に沸き起こった激しい感情を何と呼ぶべきか、少年にはわからなかった。

 父も加担した七貴族の変によって王国へと逃れていた主――アドラステア帝国第四皇女エーデルガルトが、帝都アンヴァルに帰還した。父によってもたらされたその報に、ヒューベルトは今にも駆け出したい衝動を懸命に堪えつつ、彼の前を辞したのであった。

 壮麗な宮城の回廊を黒ずくめの少年が早足で歩いていた。
 派手な装飾に彩られたアドラステア帝国皇帝の居城は、その華々しさとは裏腹に重苦しい空気が澱んでいた。三年前の政変によって統治者としてのすべての権能を奪われ、貴族達の傀儡と成り果てた皇帝。その翳りは、宮城の雰囲気にも影響を及ぼしていたのだった。

 誰も彼もがひっそりと息を潜め、周囲の様子を窺っているかのような気配に満ちた宮城の中を突っ切って、ヒューベルトは見慣れた扉の前に立った。三年前までは毎日のように通った、主エーデルガルトの部屋である。八歳だった彼女も、今は十一歳となっているはずである。しかし、ヒューベルトは十一歳となった主の姿を思い描けずにいた。

「……ヒューベルト?」
 扉の中から、耳慣れたものから幼さが抜けた声が聞こえてきた。皇女の部屋へと一歩足を踏み入れて、少年は息を呑む。
 部屋の中に、確かに皇女はいた。しかし、その姿はヒューベルトの記憶の中にあるものとは大きく様変わりしていたのである。

「……エーデルガルト様、お久しぶりです。お帰りを心よりお待ちしておりました」
 我に返ったヒューベルトは、深く腰を折った。
「ええ、久しぶりね、ヒューベルト。とても懐かしいわ」
 大きな窓を背にして立つエーデルガルトに、差し込む日差しが降り注ぐ。太陽の光を受けて、白銀の髪がきらめいていた。記憶の中にいる彼女は、栗色の髪を持っていたというのに――。

 しかし、少年が心に受けた衝撃はそれだけではなかった。
「それで、貴方はどうしてここに?」
 菫色の瞳がこちらに向けられた。しかし、その眼差しは少年をすり抜けて、どこか遠くを見ているようでもあった。

「私は、エーデルガルト様の従者ですから」
 ヒューベルトは胸元に手を当て、先ほどよりは浅く一礼した。
「……従者」
 エーデルガルトは今にも掻き消えてしまいそうな小さな声で、少年の言った言葉を繰り返した。
「そう。従者、ね……」
 皇女は視線を落として、ぶつぶつと呟いている。

「エーデルガルト様?」
 ヒューベルトがその名を呼ぶと同時に彼女が顔を上げた。やはり、自身の姿が彼女の瞳に映っているのか、少年が不安を覚えるような眼差しである。
「いずれ、私がお父様の後を継いで皇帝となったら――

 少女の声はか細いものだったが、その言葉はヒューベルトの心に重く響いた。
 皇帝イオニアス九世の後宮には多くの妃があり、エーデルガルト以外にも十人の皇子、皇女が誕生した。しかし、ここ数年の間に彼ら、彼女らのほとんどが急逝、あるいは病の床に伏し、イオニアス帝の九番目の子エーデルガルトのみが唯一の皇位継承者として残されたのである。只事ではない。宮内卿であるヒューベルトの父、ベストラ侯爵が何やら秘匿している気配は感じるが、それが何なのか、彼には掴めていなかったのである。

「貴方も、貴方の父ベストラ侯の後を継いで宮内卿となり、私を支えてくれるのでしょうけれど……」
 アドラステア帝国の要職は六大貴族が世襲によって受け継いできた。
「でも、それは将来の話。今は、伯父様が付けてくださった女官や侍女達がいるから充分よ」
 ヒューベルトは、エーデルガルトからそのまま水平に視線を動かす。それまで、まるで彫像のようにそこに立っていた女が膝を折って恭しく一礼したのだった。

「エーデルガルト殿下の伯父君アランデル公より、殿下の身の回りのお世話を仰せつかりました。これより、殿下のことはどうぞわたくし共にお任せくださいませ」
 部屋には、この女の他に侍女とおぼしき女が数人いた。その中にヒューベルトが見知った顔はない。いずれも身なりは良いが、表情が乏しいことが妙に印象に残った。

「……アランデル公が」
 彼の呟きに、エーデルガルトは緩慢な動きで頷く。この部屋に足を踏み入れたその時から感じていた違和感が、いよいよ大きくなる。
 ヒューベルトの知る皇女エーデルガルトは快活な少女であった。三年の月日が彼女を大人にさせたのか、あるいは慣れない異国での暮らしが彼女から無邪気な明るさを奪っていったのか。何が起因となっているのか、ヒューベルトには皆目見当が付かないが、常に傍近くにいたはずの彼女がどこか遠い存在に感じられてならなかった。

「今から本を読みたいの。気が散るから、出て行ってくれないかしら」
 エーデルガルトの言葉を受けて、女官の冷ややかな視線がヒューベルトへと向けられた。
「殿下のご命令です、ヒューベルト様」

 女官の態度は横柄であったが、もちろん、そんなことで怯むような少年ではない。ただ、主の口から告げられた言葉が染みのように胸の裡に広がっていく。ヒューベルトは主を見るが、彼女の瞳は少年を素通りして、女官達の方へと行き着く。
「貴方達もよ」
 短く付け加えられた言葉に、女の眦がわずかに吊り上がった。

「ですが、わたくし共はアランデル公より――
「聞こえなかったかしら? 何か用があれば貴方達を呼ぶわ。だから、一人にして」
 エーデルガルトの語気が少しばかり強まる。そこにかつての彼女らしさの片鱗を見出したヒューベルトだったが、それを掴むよりも早く、春先の遅い雪のように消えてしまったのだった。
 仮面のような表情に戻った女官が、侍女達を伴ってぞろぞろと部屋を出て行く。そうして、ヒューベルトただ一人がその場に残った。

「エーデルガルト様」
 従者の呼びかけに、皇女はくるりと身体の向きを変えて彼に背を向けた。
「一人にしてと言ったわ。命令が聞けないの?」
 ヒューベルトはその場から一歩も動くことなく、口を開く。
「エーデルガルト様。我が父ベストラ候は宰相らに加担して、エーデルガルト様の父君よりすべての権能を奪いました。帝国が興ってよりフレスベルク家を影から支えてきたベストラ家のあり方を翻してまで。そんな父の息子である私のことも――

「そうではないわ!」
 従者の言葉を遮るように、彼女は強く否定した。
「……お願いだから、一人にして。それから、もうここへは来ないで」
 主からの『命令』ではなく『お願い』。ヒューベルトは口を閉ざし、深く一礼した。頑なに振り返ろうとしないエーデルガルトにはその姿は見えない。そうして、彼は足音も立てずに皇女の私室を出て行ったのである。ただ、扉の閉まる音だけが彼女の耳に届いた。
「ヒューベルト……」
 一人きりとなった皇女は絹製の手袋を嵌めた手をきつく握りしめ、従者の名を呟くのだった――