真紅の薔薇を、貴方と私に。

 宮内卿ヒューベルトはアンヴァルの街を歩いていた。露店が立ち並び、戦前の活況を取り戻しつつある帝都。その様子を眺めながら彼はゆっくりと足を進めていた。

 この日彼は協力者からの報告を受けるために相手が潜入しているアンヴァルの下町まで足を伸ばしていた。その帰りである。帝国の重職にある宮内卿自らが動くとなると目立って仕方がない。いつも通りの黒ずくめの服装は多くの人が行き交う市場では異彩を放っていた。「宮内卿ベストラ候だ」、「炎の女帝の懐刀」などという囁き声がヒューベルトの耳にも入ってくる。彼の服装や顔から、その正体を知っている者もあるのだろう。中には怯えたように顔を伏せ、すっと横に避けていく者まである。だが、ヒューベルトは気を悪くする風もなく、平然としていた。市井の者が自分をどう噂しているかなど承知している。

『あんたについてのおっかない噂をよく聞くぜ。派手な尾ひれをつけてな』
 つい先ごろ会ったばかりの人間の言葉が蘇る。言われるまでもない。

 その相手が宮城などに足を踏み入れるのは御免だ、うっかりあの女帝と遭遇したら面倒だ、などと宣うために、ヒューベルト自らが出向いたのである。宮城内といえども広大なあの場所で、うっかり遭遇することなどそうそうあり得ないことではあるが。結果こうして目立っているのだが、それも計算ずくだ。密かに動向を探っている不穏分子を釣り出すことができればよいのだが。奴らがどう動くか、目を離さぬよう協力者には念を押してきたばかりだ。「人使いが荒い」などと愚痴を零していたが、報酬通りの働きを見せるという点においては信頼に値する相手だ。

   *   *   *

「お花、お花はいかがですかー……」
 雑踏の中で、何故かは分からぬが、か細い声をヒューベルトの耳が捕らえた。声のした方に目をやると、色とりどりの花を並べた露店の前で、小柄な少女が道行く人々に声をかけている。しかし、弱々しい声に足を止める者は見られなかった。
 ヒューベルトもその前を通り過ぎようとしたが、一際目を惹いた赤い薔薇に足を止めた。甘い香りを放ち、咲き誇る姿に、彼の主の姿が重なる。

「あのー、お花――……」
 声をかけてきた花屋の少女が、ヒューベルトの顔を見るなり息を呑んだ。どうやら、宮内卿ベストラ候の顔を知っていたようだ。少女は顔を伏せ、一歩後退りする。どうにも商売人に向かない気質のようだ。
「その赤い薔薇を――」
「はっ、はいぃ……!?」
 ヒューベルトが薔薇を指さしながら声をかけると、少女は飛び上がらんばかりに驚いた。彼は苦笑を浮かべながらも続ける。

「赤い薔薇を一本、いただけますかな」
「あっ、はいっ……!」
 花屋の少女は角度を変えながら赤い薔薇の束を見つめた後に、その中から一本を抜き取って男に差し出した。どうやら、一番見事に咲いているものを選んでくれたらしい。

「では、これで」
 赤い薔薇と交換に、少女の手に銀貨を乗せる。歩き出そうとしたヒューベルトを、慌てた少女の声が追いかけていた。
「あの、お釣りを……!」
「結構です。それしか持ち合わせがなかったのでね。取っておきなさい」
「まっ、待って下さい!」
 少女の声はなおも追い縋ってくる。
「何ですかな?」
 ヒューベルトが少女に向き直ると、彼女はもう一本の薔薇を差し出して彼を見上げた。

「これは……おまけです……」
 彼女のかぼそい声に、男は小さく笑った。だが、その笑いは少女をさらに震え上がらせてしまったらしい。
「失礼しました。しかし、いただくわけにはまいりませんな。――これで」
 ヒューベルトはもう一枚銀貨を取り出すと、少女に手渡した。
「あのっ、そのっ……、わたし、そんなつもりじゃ……!」

 狼狽え出す少女に、ヒューベルトはうっすらと笑った。
「ええ、わかっていますとも。――実は、私はこれから主の機嫌を取らなくてはならないのです。貴殿のこの薔薇なら、我が主も気に入ることでしょう。その礼も込めてですよ」
 そう言うと、彼は今度こそ宮城に向かって歩き出したのだった。

   *   *   *

「ただいま戻りました、皇帝陛下」
 皇帝の執務室に足を踏み入れると、エーデルガルトは書簡の山積している執務机に頬杖を突きながら、ぎろりと睨みつけてきた。
「あら。今日はどこをほっつき歩いていたのかしら、宮内卿?」
 彼女に内密で動いていたことをすでに嗅ぎつけているらしい。こういったことに関する彼女の嗅覚は目を瞠るものがある。

「貴方が花なんて珍しいわね」
 ヒューベルトが手にしていた二輪の薔薇に、エーデルガルトの目が留まる。
「誰か、素敵な女性からの贈り物かしら?」
「……」
 嫌味のつもりだったのだろう。しかし、答えないヒューベルトに、彼女の視線は鋭いものとなり、真っ直ぐに従者を射貫く。

「どうしてそこで黙り込むのよ」
 不機嫌を露わにするエーデルガルトに、ヒューベルトはくつくつと笑って城下で買ったものだと種明かしした。
「どうぞ、これを。――貴方様に」
 二本のうちの一本を主に差し出す。赤い薔薇を受け取ったエーデルガルトは、目を閉じてその香りを嗅ぐ。
「良い香りね、ありがとう。だからって、誤魔化されないわよ。今日、何をしていたか、貴方の主として、報告を求めるわ」
「ええ。それは後ほど、ゆっくりと」
 すべてを包み隠さず報告すると約束した。それを違えるつもりはない。

 一礼をして執務室を辞そうとする従者を、エーデルガルトは引き留めた。
「そちらの花はどうするつもりなの?」
 ヒューベルトの手には、今彼女が手にしているものと同じ赤い薔薇がある。
「何、私の執務室も殺風景ですからな。たまには華を、と思いまして」
 ――貴方様を思い起こさせる、揃いの花を。