雨と花冠

 もう間もなく、雨が降り出す。
 アドラステア帝国第四皇女にして、唯一の皇位継承者であるエーデルガルトの従者を務める少年は、頭上を見上げた。宮城の中にある庭園でのことだった。少年の真上はまだ青い空が広がり、白い雲もぽっかりと浮かんでいる。しかし、西の方角に目をやれば、鉛色の厚い雲が徐々にこちらに向かって迫ってくるのが見えた。

「エーデルガルト様、間もなく雨が降るでしょう。どうぞ、宮城の中へ」
 皇女は真剣な表情で白い薔薇の花を摘んでいた。まだ充分には開いていないもの、逆に盛りを過ぎて花弁が開きすぎてしまったものを避けて、綺麗に咲いている白薔薇を剪定鋏を使って摘んでいく。薔薇は鋭い棘を持つ花だ。怪我をしてはいけないからヒューベルトが代わりにやると申し出たにもかかわらず、彼女は自らの手で薔薇を摘むのだ、と言って聞かなかったのである。
 エーデルガルトは従者の少年が見ている方向にちらりと視線を向ける。

「わかっているわ、ヒューベルト。だから急いで白い薔薇を摘んでいるのよ」
 そう言うと、少女はすぐに咲き誇る白薔薇の群れに目を戻した。湿った風が少年の片方の目を隠す前髪を、少女の長い銀髪を揺らして吹き抜けていく。年端もいかぬ子どもでもあるまいに、エーデルガルトも雨が近いことを理解しているはずだ。それでも、彼女は少年を無視して、角度を変えながら白薔薇を眺めていた。皇女らしからぬことに、傍には華奢な造りの靴も、薄絹の靴下も芝生の上に投げ出され、彼女は裸足であった。

 花冠の節。エーデルガルトはこの節に生を受けた。もう間もなく、彼女の生誕の祝いがこの宮城で行われることだろう。例年皇女の誕生祝いとしては、呆気ないほどに簡素なものであるのは当の本人、エーデルガルトの強い要求によるものであった。また、アドラステアの宮城では近年不幸が続き、陰鬱な影を落としていた。派手な祝い事からは遠ざかっているのだった。

 節の由来は、雨期の到来を前に娘達が白い薔薇を摘み、花冠を編んで想い人や親しい間柄の者に贈ったというもの。かつての庭園ではこの時期となると、仲の良い姉妹達の笑い声が弾けたものだった。白薔薇を摘む者、器用にそれを花冠に編み上げる者。年若い皇女達が上手く花冠を編むことができずに泣きべそをかき、それを年長の姉達が宥めるという光景が少年の前で繰り広げられていた。今、このだだっ広い庭園にいるのはエーデルガルトと少年のただ二人だけだ。軽やかな笑い声もない。

 少年が、今はもう失われてしまったひとときを思い起こしていると、鼻先を生ぬるい水滴が掠めた。上を見上げると、頭上に広がっていたはずの青空は低く垂れ込める鉛色の雲に隠れてしまっていた。
 ヒューベルトは急いで投げ出されていた皇女の靴と靴下を拾い集めた。主の手を引いて屋内に退避しようとしたが、それよりも早く、大粒の雨が激しく石畳に叩き付けられ、白い飛沫しぶきを上げた。

 少年は舌打ちした。自分は構わない。けれども、皇女をずぶ濡れにさせるわけにはいくまい。広大な庭園だ。だが、周囲を見渡せば、幸いにして四阿がすぐ近くにある。雨が止むまでそこで雨宿りすればよいだろう。
「エーデルガルト様、あの四阿まで走りますよ」
 少女はヒューベルトの手をしっかりと握り返し、駆け出した彼に付いてきたのだった。

 四阿に辿り着いたものの、その屋根に叩き付けられる雨音は激しく、耳を塞いでしまいたいほどである。ヒューベルトは、ぽたぽたと水滴が絶え間なく落ちてくる黒髪を掻き上げながら振り返り、ぎょっとした。彼のすぐ後ろには片手に白薔薇の束を抱えた少女が突っ立っていた。しかし、靴も、靴下も脱いでいたために、すらりと伸びた白い脚は泥にまみれていたのだった。

「エーデルガルト様、そこにお掛けください」
 ヒューベルトは、石造りの腰掛ベンチを指さした。彼は主たる皇女が何をしでかしても滅多に感情を面に出すことはなかったが、さすがに裸足の足を泥だらけにし、服にも泥を跳ねさせた「皇女殿下」の姿には呆れの色を露わにした。すると、エーデルガルトは途端にしおらしい態度となり、彼の言う通りの行動を取る。悪戯を見破った少年がわざと怖い顔つきをしてみせても平然としていて、却ってけらけらと笑っているはずの少女が。それにはヒューベルトも若干拍子抜けしたが、皇女の泥だらけの姿を前に気を取り直す。

「雨が止んで部屋に戻ったら、湯を用意させましょう。ですが、今は我慢を」
 そう言いながらも、少年は四阿から身を乗り出しては両手で雨水を掬い上げ、その水で主の足に跳ねた泥を洗い流していくのだった。
「ヒューベルトが濡れてしまうわ」
 四阿から半身を乗り出した少年の服を、皇女は引っ張る。

「今更です」
「私だって、今更だわ」
 少年は主の言葉を無視して、雨水で泥を流していく。いつもは薄絹の靴下に包まれているはずの真白い足が、現れる。ヒューベルトは無言のまま、その作業を繰り返したのだった。

「止まないわね……」

 エーデルガルトが四阿の外で降り続ける雨を眺めて呟いた。雨足は弱まるどころかより一層強くなり、すぐ近くにあるはずの宮城の壁さえ見えぬ有様だった。

「まるで、雨の帷帳カーテンに閉じ込められてしまったよう。貴方と私、二人っきり」
 何が面白いのか、エーデルガルトはくすくすと笑いながら、そんなことを言う。その声もともすれば激しい雨にかき消されてしまいそうだ。しかし、ヒューベルトの耳はその言葉をしっかりと捉えたのだった。

「ヒューベルトも座りなさい。どうせ、しばらくは止みはしないのだもの」
 エーデルガルトは素足をぷらぷらと揺らしながら、さきほど泥を洗い流した雨水を跳ねさせては楽しそうに笑っている。まるで幼い子どものようだ。皇女はまだ少女と呼べるよわいではあったが、そんなことを面白がるほどに稚くはないはずだ。

 ヒューベルトが主の隣に腰を下ろすと、彼女は白い薔薇で花冠を編み始めた。突然の豪雨によって、身動きの取れなくなってしまったこの状況を有意義に過ごすと決めたようだ。手持ち無沙汰の少年は、そんな主の様子を横目で見守った。思い通りの形に編み上げることができないからか、エーデルガルトはまだ紅を刷くことない唇を尖らせて、熱中している。そんな主の様子に、自然と口角が上がる。

「――は、もっと……」
 少女の唇がわずかに動いて、何事か呟く。生憎雨の轟音に打ち消されてしまったが、少年には主が何と言ったか、だいたいの見当がついた。
 ――お姉様はもっと上手に編んでいたのに。

 かつて、エーデルガルトには多くのきょうだいがあった。今、アドラステア帝国を継ぐ者として残っているは彼女ただ一人。一人、また一人と消えていった、フレスベルグの不幸。帝国建国より皇家を支えてきたベストラ侯爵家の嫡子たるヒューベルトは、いまだ少年という齢でありながらその裏側を知っている、限られた人間であった。

「エーデルガルト様、こうしてはいかがでしょうか」
「あっ、ちょっと、ヒューベルト! 手を出さないで頂戴!」
 この世に生を受けてから半分以上の時を皇女の従者として務めてきた。彼女が反発するのを承知の上で、花冠の手直しをしてやる。

「……まあ、さっきよりは良くなったのじゃないかしら」
 従者に勝手に手を出されて面白くないのが半分。それでも見栄えの良い花冠が完成して満足したのが半分。実に複雑な表情をしながら、エーデルガルトは自らの手の中にある花冠をそう評した。

 そして、その花冠をすぐ隣にいるヒューベルトの頭に載せようとしたのだった。しかし、彼女の行動を見透かしていた従者の少年は、主の花冠を持った手をやんわりと抑えると、逆に彼女の頭上に載せたのである。その花冠は、大粒の水滴がきらめいて、やがてこの少女が戴く宝冠のように輝いてみえた――。

「もう! これは、ヒューベルトに……」
「よろしいのですよ、それで」
 不満そうに唇を尖らせる少女の言葉を遮り、従者の少年は珍しく穏やかに微笑んだのだった。